スバルは、「国内での軽自動車開発・生産からの撤退」と言う決断もあった。スバルと言えば、1958年に発売した「スバル360」が今日の軽自動車の先駆けとなった。当時、「てんとう虫」の愛称で呼ばれ、大ヒットして以来、スバルは軽自動車の分野でも独自の世界をつくってきた。それが2012年には軽自動車開発・生産から撤退し、ダイハツからOEM供給を受ける体制に切り替えたのである。

 スバルのトップは、吉永泰之社長。2011年に社長に就任する前は、国内営業本部長を務めた経験がある。スバルの社長就任としては、歴代の中で初の営業出身である。「軽自動車も、コンパクトカーも開発生産を止めて、アメリカにリソースを集中させて成功することができた。北米で成功して利益が出れば、国内向けの開発ができるという戦略だった。国内における軽自動車生産からの撤退は重い決断だったが、グローバル市場で生き残るためだった」と吉永社長は言う。

資本提携の変遷
を振り返ると…… 

 スバルは、先述したように戦前の1917年の「飛行機研究所」創立から航空機メーカーの中島飛行機を前身とした会社で、技術力には定評があった。水平対向エンジン・四輪駆動をその技術力の特徴として「玄人好み」、「スバリスト」と呼ばれるスバル車を乗り続けるファンも多かった。

 1990年代末までは、日産自動車との資本提携関係にあり、社長は日産グループ、あるいは当時のメインバンクであった日本興業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)から送り込まれていた。一方で、中島飛行機を源流とした自動車以外の航空機事業、産業機器事業、バスボディ事業(その後撤退)など、多角的な経営形態を継続していた。

 自動車事業も水平対向エンジン、四輪駆動の独自技術が売りだったが、軽自動車と小型車分野でシェアは停滞気味で、あくまでも日産グループの一員と言う位置づけだった。それでも米国市場への進出にあたっては、いすゞ自動車(以下、いすゞ)との合弁生産進出(スバル・いすゞオートモーティブインク;以下、SIA)という異色の組み合わせを選んだこともあった(その後いすゞが撤退)。

 日産が1999年に仏ルノーの傘下に入り、ルノー日産連合として再生スタートしたことを機に状況が一変する。当時はまだ世界の「ビッグ1」であった米GM(ゼネラルモーターズ)との資本提携に切り替えたのが、日産出身の田中毅社長(当時)だった。つまり、20世紀から21世紀への移行時期に起こった「自動車世界大再編」の中で、GMグループとして生き残りを賭けたのである。GMグループとして、軽自動車分野でスズキとの提携、部品共通化を模索したのも、その流れだった。