悪夢の内容証明郵便──[1993年8月]

 ある日、出社すると、「郵便物等配達証明書」という見慣れない付箋がついた一通の封筒が、僕の机の上に無造作に置かれていた。送付元を見ると聞いたことのない弁護士事務所になっている。言い知れぬ不安を抑えて封を切ると、なかには訴状が入っていた。取引先である広告代理店五社の総額1500万円にもおよぶ未払金を支払えという内容の裁判の通知だった。訴訟の仕掛け人は、岩郷氏が経営参画した際に僕を解任しようと動き、それが失敗に終わると会社を去っていったナンバー3の元専務だった。

 辞職後、彼は退任の挨拶でフレックスファームの主な顧客と取引先を訪れ、あそこはまもなく倒産するだろうと説いて回ったのだ。それも共同で裁判を起こそうと焚きつけたらしい。大阪のクライアントからも大丈夫かと連絡があった。わざわざ関西にまで足を延ばしていたようだ。

 僕は心の底から落ち込んだ。僕より少し年上の彼は、中堅の広告代理店出身で、小さな会社を経営していた。出会ったのは創業直後のこと、オフィスがご近所なのもご縁だった。ダイヤルQ2で真面目な番組を行っている者同士、お互いを認め合い、すぐさま意気投合した。その後、しばらくして当社の役員として迎え入れたのだ。辞職の際にも彼と仲違いしたわけではなかった。訳あって別々の道を歩むことになったが、友人であることは変わらない。僕は勝手にそう思い込んでいた。

 原告のなかには、前日に訪問したばかりの広告代理店の社長の名もあった。その時、僕は支払いが遅延していることを謝罪し、返済計画を説明するとともに、未払い残金の約半分に当たる500万円を手渡した。

「苦しいこともあるけれど、がんばってくださいね」

 社長は暖かい励ましで僕を見送ってくれた。その翌日に訴状は届いたのだ。僕は生まれてはじめて裁かれる立場となった。

 追い討ちをかけるように、城南信用金庫の銀行口座が先方の弁護士によって差し押さえられた。正確には、彼らが裁判で勝訴した場合の支払い原資を確保するための仮差押えだ。口座番号や振り込みのタイミングなどの内部情報が、元専務らを通じて先方に漏れていたのだ。これでフレックスファームはメインバンクの信頼を損ない、資金調達の手段を失うこととなった。

 企業の資金繰りが破綻すると、信用不安が社内外を覆い、社長は資金繰りのこと以外は考えられなくなる。潤沢な資金なくして、一度回りはじめた負のスパイラルを正回転に戻すのは至難の業だ。

 祐天寺オフィスの家賃の滞納も一年近くになった。滞納額は差し入れた保証金の額を大きく超え、大家の怒りも限界に達したようだ。ようやくかき集めた50万円を手渡した福田に対して、大家の担当者はその封筒を投げつけて言い放った。

「1ヵ月分にもならないじゃないか。こんなもので足りると思うのか!」

 それが大家からの最後通牒だった。

 その後まもなく、またしても禍々しい内容証明郵便が僕のもとに届いた。家賃滞納分を確保するために、僕の家族が住む自宅を仮差押え処分にしたという裁判所からの通知だった。オフィスを借りるにも代表取締役の連帯保証は必須条件だ。創業社長にとって、会社の借金はすなわち個人の借金なのだ。

 結局、大家とは未払金返済を約束する公正証書を交わすことで仮差押えを解いてもらった。公正証書とは公証人役場で作成される公的な契約書で、裁判所の判決と同等の効力を持つ文書だ。これを交わすと、こちらが一度でも約束をたがえた時は、相手は僕の自宅を競売にかけることができる。つまり、絶対に破れない返済の義務を背負ったということだ。

 当時、NTTの自主規制によって一気に冷え込んだダイヤルQ2のリカバリー市場として、プリペイドカードによるアダルト系サービスが形成されていた。僕たちはテレアポ営業でこの市場における新規顧客を開拓し、音声応答サーバー事業を続けていた。ここからの収益、それに銀行からの新たな借り入れによって、フレックスファームはどうにか存続していた。

 取引先からの裁判に対する支払い、未払い家賃に加えて、月々の人件費、家賃、仕入れ、営業経費、そして銀行への返済。すべてを支払うことはできないので、毎月多くの取引先へ足を運び、お詫びと状況報告する日々が延々と続いた。裁判の和解金と未払い家賃を支払い終えるまでに約2年の歳月がかかり、銀行からの借り入れはいびつに膨らんでいった。(つづく)

(第13回は1月16日公開予定です)

斉藤 徹(さいとう・とおる)
株式会社ループス・コミュニケーションズ代表 1961年、川崎生まれ。駒場東邦中学校・高等学校、慶應義塾大学理工学部を経て、1985年、日本IBM株式会社入社。29歳で日本IBMを退職。1991年2月、株式会社フレックスファームを創業し、ベンチャーの世界に飛び込む。ダイヤルQ2ブームに乗り、瞬く間に月商1億円を突破したが、バブルとアダルト系事業に支えられた一時的な成功にすぎなかった。絶え間なく押し寄せる難局、地をはうような起業のリアリティをくぐり抜けた先には、ドットコムバブルの大波があった。国内外の投資家からテクノロジーベンチャーとして注目を集めたフレックスファームは、未上場ながらも時価総額100億円のベンチャーに。だが、バブル崩壊を機に銀行の貸しはがしに遭い、またも奈落の底へ突き落とされる。40歳にして創業した会社を追われ、3億円の借金を背負う。銀行に訴えられ、自宅まで競売にかけられるが、諦めずに粘り強く闘い続けて、再び復活を遂げる。2005年7月、株式会社ループス・コミュニケーションズを創業し、ソーシャルメディアのビジネス活用に関するコンサルティング事業を幅広く展開。ソーシャルシフトの提唱者として「透明な時代におけるビジネス改革」を企業に提言している。著書は『BE ソーシャル 社員と顧客に愛される 5つのシフト』『ソーシャルシフト─ これからの企業にとって一番大切なこと』(ともに日本経済新聞出版社)、『新ソーシャルメディア完全読本』(アスキー新書)、『ソーシャルシフト新しい顧客戦略の教科書』(共著、KADOKAWA)など多数。