復古とは何か
復古、復古というが、では一体どこへ復古すべきだというのか。それは、律令制の時代、即ち、奈良朝あたりである。
彼らの唱える、天皇を神格化した狂信的な尊皇原理主義からいえばこれもおかしな話で、奈良朝にしても飛鳥朝にしても政治的にも文化的にも中国の影響なくして成立し得たはずはないのだ。
復古主義者、尊皇原理主義者たちも、当然このことは分かっている。
彼らは、実のところ神代(かみよ)の古代に復古したかったのである。
このことはもはや、勤皇思想の過熱、暴走が生んだ妄想というべきであろう。
記紀が叙述する神話の世界とは、史実かどうかを云々する対象ではない。
これを史実とすれば、神武天皇以下、日本開闢(かいびゃく)初期の天皇は、二百歳、三百歳という長寿の天皇が何人も存在したことになるのだが、これに目くじらを立てることはナンセンスであろう。神話の世界とは、民族の精神文化を生んだ母胎として長閑(のどか)に好ましい気分で大事に抱いていていいものではないだろうか。
ただ、愚かで卑劣なりとはいえ、尊皇原理主義者たちを多少擁護するとすれば、いつの世に於いても新しい政権が成立早々盤石というケースは、まず存在しないのではないか。政権奪取に役立った建て前、方便というものを一定期間は具現化することもまた、政権を固めるには必要となるものであろう。