「大蔵省」「宮内庁」の発端は
ここにあり
現実に、幕府から政権を奪って間もない明治二(1869)年七月、新政府は二官六省を設置した。
二官とは、神祗(じんぎ)官、太政(だじょう)官、六省とは、民部、大蔵、兵部(ひょうぶ)、刑部(ぎょうぶ)、宮内、外務の六省をいう。
何という名称であろうか。
まるで律令時代へ遡ったようではないか。
さすがに神代の時代には役所は存在しなかったので、可能な限り復古したということである。
そして、この名称のほとんどは、昭和まで使われていたことをご存じであろう。
大蔵省は平成十三(2001)年一月に財務省と改称されるまで存続していたし、外務省は現在もその名称のまま存在する。
宮内省は、内閣府宮内庁となったが、実質的に名称は変わっていない。
斯様(かよう)に私たちの社会は、民族の歴史上初めて外国の軍隊に占領されるという、一時的にせよ国家としては滅亡しながら、それでも薩長新政権の性根(しょうね)といってもいい骨格のようなものを引き継いでいるのである。
このことも、王政復古クーデター以降の歴史を全く検証していないことを、何よりも雄弁に物語っているといえるのではないか。
明治二年のこの時、現在の内閣に当たる組織を太政官と呼称することになった。これも律令時代、即ち、おおよそ千二百年前への復古に他ならない。
太政官の構成は、右大臣三条実美(さんじょうさねとみ)、大納言岩倉具視、参議に大久保利道、広沢真臣(ひらさわさねおみ)、前原一誠(まえばらいっせい)、副島種臣(そえじまたねおみ)が名を連ねた。
右大臣だ、大納言だとなれば、光源氏がここへ名を連ねていても全く違和感を感じないであろう、紛れもない復古政権なのである。
このように、名分、方便というものを具体的なかたちに表現して成立した、我が国の「近代」を切り拓いたとされてきた明治復古政府は、ひたすら西欧の模倣に邁進したのである。
彼らは、討幕戦争、会津戦争、そして、箱館戦争を戦って、欧米製の武器の優位性を知っている。
自分たちに脅威を与えた幕府海軍の軍艦も、欧米の工業力が産み出したものだ。