なぜ中身のない会話をする必要があるのか?

齋藤 孝(さいとう・たかし)
1960年、静岡県生まれ。東京大学法学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程を経て、明治大学文学部教授。専攻は教育学、身体論、コミュニケーション論。テレビ、ラジオ、講演等、多方面で活躍。
著書は『声に出して読みたい日本語』(草思社)、『読書力』『コミュニケーション力』(岩波新書)、『現代語訳 学問のすすめ』(ちくま新書)、『質問力』(ちくま文庫)、『語彙力こそが教養である 』(角川新書)、『雑談力が上がる話し方』『雑談力が上がる大事典』(ダイヤモンド社)など多数ある。
撮影/佐久間ナオヒト

「お出かけですか、どちらまで?」
「ええ、ちょっと新宿まで買い物に」

「今日も寒くなりそうですね」
「こう毎日だと参っちゃいますね」

「お盆だから、ラッシュでも電車が空いてますね」
「いつもこうだと嬉しいんですけど、そうもいかないか」


「選挙が近いから毎日にぎやかですよね」
「叫んでいるほうも大変でしょうね」

「この踏切は本当に開かないな。急いでる人は大変ですよね」
「まったく。でも今さら高架にするってのもねぇ」

――どれも内容だけ見れば「だからどうした」というレベルの話。
 正確に伝えなければいけない情報も、しっかり聞いておかなければいけない報告もない。
 中身など、ほとんどありません。

 でもこの会話があるだけで、お互いに心がフワッと軽くなるはず。
 たわいもない会話を共有したことで、ちょっと相手と打ち解けた気分になるはず。
 もしかしたら、次に会ったときには、「この間はどうも」と気軽に会話ができるかもしれません。
 雑談はそれでいいんです。

 実際に「寒い」「暑い」かどうか、本当に電車が混んでいるかどうか、選挙はどうするか、開かずの踏切をどうするべきかなど、ここではどうでもいいこと。

 重要なのは、相手と言葉を交わすことで、同じ場所、同じ時間の空気を共有すること。そして、その場をほんわかと心地よくすること。
 会話の中身は、あくまでもそのための方便なのです。

 もうひとつ、雑談に中身がないことの大きなメリットとして、「誰にでも通じる」という点があります。

 用件や目的のためにする会話は、おのずと相手が限定されます。
 その用件に関係のある人、その用件を共通のコンテクストとして持っている人とだけしか話せないわけです。

 その点「中身がない(=用件ではない)会話」は相手を選びません。

 社長だろうが上司だろうが、家族だろうが友人だろうが、ほんの顔見知り程度の人だろうが見ず知らずの人だろうが、まんべんなく、どんな人が相手でも話が通じるのです。

 マンションの駐輪場でばったり会った管理人さんに、「わが社の業績低迷」について、何の前触れもなく相談をする人はいないでしょう。
 でも今日明日の空模様の話なら、管理人さんにも隣の奥さんにも、商談相手の担当者にも通じるはず。それは、誰にとっても中身のない会話だからです。

 話す相手を選ばない。いつでも、誰にでも通じる。中身がないからこそ、その会話はものすごく広い守備範囲をカバーできるのです。

 仲のいい友達なら、共通の話題で会話がはずむけれど、ほかの人だと話せない。
→共通の話題がある人としか話せない。

 仕事に必要な会話ならばできるけれど、それ以外になると話せない。
→必要な用件しか話せない。

 このように、中身のある話しかできないというのでは、社会とのつながりも狭くなり、社会との関係性も危うくなってしまうでしょう。

 いかに中身のない話ができるか。
 世の中の9割を占める中身のない雑談にこそ、人と人とのコミュニケーションにおける本当に大事なポイントが存在しています。

 雑談の真の意味を知れば、「時間のムダ」などと思わなくなるはずです。
 それどころか、ほんの数秒で相手との距離を縮めることができ、そこから人と人の信頼関係が構築され、時にはビジネスを成功に導くこともある。
 雑談ほど効果効率の高い手段はないと、実感することでしょう。

 次回はルール2の「雑談に結論はいらない」についてお話したいと思います。
(次の更新は3月2日予定です)

※この記事は書籍『会話がはずむ雑談力』の一部を、編集部にて抜粋・再構成しています。