おそらくこれが、塚本幸一が全国版のマスコミで紹介された最初だった。

 ワコールは最初の10年で総資産が425万から4億1261万円へと97倍に達している。インフレ率を勘案しても76倍という急成長だ。資本金も創業当初の100万円から昭和34年度末には5000万円、自己資本は1億730万強に達した。売上高も半沢エレガンスを抜いて、ついに業界トップに立った。

 彼は10周年を記念し、50年計画の第1節の区切りを迎えた心境を次の句に詠んでいる。

 拾年を固めて建てて次の夢  幸一

初めての労使問題

 ブラジャーでビルも建て、順風満帆に見えたワコールだが、幸一を悩ませる事態が発生する。それは戦後経営者の共通の悩みである労使問題であった。

 同じ京都の戦後ベンチャー企業の雄で、熊本出身の技術者立石一真が創業した立石電機(現在のオムロン)では、昭和23年(1948年)6月、立石電機の生産部門を担う子会社の立石電機京都製作所に労働組合が誕生。

 共産党がオルグしたこともあって、とてものめない大幅な賃上げと高額な一時金の要求が出され、交渉は決裂。ストライキに突入し、会社に赤旗が乱立する大争議に発展する。

 結局、事業所閉鎖、全員解雇、子会社ながら会社解散という、労使双方に大きな傷跡を残す結果となった。その2年後、立石は最愛の妻を亡くし、人生の地獄を見ることになる。

 一方のワコールは、立石が苦労していた時期、労使問題は表面化していなかった。創業当初は給料の遅配さえあったわけで、会社の足を引っ張れば即倒産だということをみな理解していたからだ。

 最初の組合結成の動きは、立石電機よりよほど遅く、昭和28年(1953年)11月に製造部門で起った。ついに我が社でもできたかとは思ったが、幸一はたいして気にもとめなかった。まだ従業員が160名ほどの会社なのだ。彼らは家族も同然という思いがあった。

 ところが、12月の組合との団体交渉の場で組合員から大いになじられ、愕然とする。

 全従業員を工場の2階に集め、自分の信じる経営方針を熱く説いた。そして自らの不徳を詫びながら、方針を理解してもらえないなら社長辞任するか会社を解散するしかないと涙をまじえて訴えた。

 すると変化が起こった。そもそも営業部門の人間は幸一に深い信頼を寄せ、組合に批判的だったのだ。彼らは製造分野の人間よりも気性が荒い。社長擁護の立場から組合員たちを追いつめた。たまらず組合側は社長慰留の陳謝状を書くこととなり、即刻組合解散ということで事態は収拾された。

 ワコールのいわば第一次組合運動といえる事件であった。