受動喫煙防止法案に関する議論が続いている。受動喫煙が周囲の人の肺がんのリスクを上げることは疑いがないのだが、飲食店の売上が減ることを心配している飲食店の経営者や一部の国会議員から反対の声が上がっている。飲食産業に8400億円の経済損失を指摘する調査結果を目にした人もいるだろう。

しかし『「原因と結果」の経済学』の著者である中室牧子氏、津川友介氏によれば、「8400億円の経済損失を指摘したレポートは今回の政策の判断材料にするべきではない」という。どういうことか、詳細を聞いた。

受動喫煙防止法案で
8400億円の経済損失?

(画像はイメージです)

 厚生労働省(厚労省)が今国会に提出する方針の「受動喫煙」を防ぐための法案に関するニュースが新聞やテレビをにぎわせている。厚労省は飲食店を含めて建物内を原則禁煙とする案を提出しているのに対して、業界団体からは来客が減るとの反対の声が上がっている。

 受動喫煙によって喫煙者の周りの人が肺がんなどのリスクが上がることに関しては、日本における研究も複数存在しており、もはや議論の余地はない(第6回)。いま議論に上がっているのは、「飲食店の売上」に対する影響である。

 世界各国では同様の法律が導入されており、その飲食店への影響を評価したメタアナリシス(複数の研究を統合して評価する手法)によると、受動喫煙防止の法律を導入しても飲食店の収入が下がることはなく、逆にファミリー層などの利用が増えることで売上が上がる場合もあることが明らかになっている(第5回)。

 このような研究結果があるにもかかわらず、飲食店の業界や自民党内の一部の議員からは、「それでもやっぱり売上に悪影響があるのではないか」という心配の声は根強い。その声に応じるように、3月3日には「受動喫煙防止法案、外食産業に8400億円の打撃」という記事が日本経済新聞(日経)に掲載され、話題になっている。

 この記事の元となったのは民間調査機関の富士経済が行った調査である。富士経済は、東京、愛知、大阪の3都市圏にある居酒屋やレストランなど1020店の責任者に対して、法案が実際に施行された場合の「売上予測」を聞き、それを元に影響を予測した。

聞き取り調査は
科学的根拠(エビデンス)にはならない

 関係者に「売上予測を聞いた」ことで得られたデータでは、因果関係があるかどうかを評価することはできない。つまり、本当に受動喫煙防止法案が売上に影響を与える可能性が高い(因果関係がある)のか、それとも飲食店の責任者がなんとなくそう思っているだけ(因果関係はない)なのかわからない。この調査結果から「外食産業に8400億円の打撃」という因果関係があることを想起させる記事を書くことは、誤解を招く表現であると言わざるを得ない。

因果関係……2つのことがらのうち、片方が原因となって、もう片方が結果として生じる関係のこと。「受動喫煙防止法」と「飲食店の売上」のあいだにマイナスの因果関係がある場合、受動喫煙を防止する法律を厳しくすると飲食店の売上は下がる。
相関関係……一見すると片方につられてもう片方も変化しているように見えるものの、原因と結果の関係にない関係のこと。「受動喫煙防止法」と「飲食店の売上」の関係が相関関係である場合、受動喫煙を防止する法律を厳しくしても、それによって飲食店の売上が下がることはない。

 受動喫煙防止法案に反対している人たちの中には、三菱UFJリサーチ&コンサルティングが2011年に行った調査の結果を引き合いに出し、飲食店の売上が下がるのではないかと主張している人もいる。この調査は、2010年4月に神奈川県で導入された受動喫煙防止条例の影響を見ているのだが、実はこれにも前述の富士経済が関わっている。富士経済からの委託調査として三菱UFJリサーチ&コンサルティングが行ったものなのである。

 これも同様に富士経済が関係者に対して行った聞き取り調査のデータを用いた調査であり、因果関係をきちんと評価する方法で解析されていない。よって売上の低下が条例の影響なのか(因果関係)、それとも売上は減少傾向にあり条例があってもなくても売上は減っていたのか(相関関係)わからない。

利益相反に関する情報が
明らかにされていない

 これら2つの報告にはもう一つ大きな問題がある。それは利益相反の可能性である。過去にアメリカの研究者らが「タバコの受動喫煙と心疾患や肺がんとの関係は小さい」という結論の論文を発表した。この論文の著者らは、タバコ関連企業からの研究資金を得ていることが判明し、中立性に問題があるという大きな批判を受けることになった。

 これ以降、学術論文の場合、どこから研究資金などの支援を得たかということは必ず記載しなければならなくなった。しかし、民間調査会社のレポートは、こうした手続きを踏まないため、利益相反の有無を評価することが難しい。仮にこれらがタバコ関連企業から資金提供を受けた調査であったとしたら、その結果を信頼することはできないことは言うまでもない。

 受動喫煙防止法案によって飲食店の売上が下がるというこの2つの報告はいずれも因果関係を評価したエビデンスではなく(注1)、重大な利益相反の問題も明らかにされていないため(注2)、国会などで政策の議論の判断材料として用いるのは適切ではないだろう。

注1 私たちが「エビデンス」と呼ぶことができるのは因果関係を証明した研究のみであるため、これらの報告書はエビデンスと呼ばない。
注2 私たちは利益相反があると主張しているのではなく、利益相反の有無を評価するのに必要な情報がないことを問題視している。利益相反がないことが証明されるまでは、政策判断の材料として用いることには慎重になるべきであると考える。ちなみに今回の記事および後述のデータ解析に関連して、中室牧子、津川友介ともに開示すべき利益相反はない。

受動喫煙防止法と飲食店の数には
因果関係があるのか

 私たちは今回、神奈川県の飲食店の数(飲食店と喫茶店の総数)のデータを入手し、条例の導入によって飲食店の数に変化があったかどうかを評価した。もし受動喫煙防止法が飲食店の売上にマイナスの因果関係があるのであれば、飲食店の数が減っていると考えられる。

 神奈川県は条例の影響を受けたグループ(「介入群」と呼ぶ)、周囲の8つの県は条例の影響がなかったグループ(「対照群」と呼ぶ)とした。

 図表1を見ると、どの県でも飲食店の数は条例が導入される前からすでに減少傾向にあったことがわかる。さらには、神奈川県のデータ(赤線)を見ても、条例の前後でその傾向に変化があったようには見えない。

飲食店内で喫煙できなくなっても
店の数には悪影響を与えない

 ここで、「差の差分析」という手法を用いて、条例と飲食店の数に因果関係があるかどうかを評価した。その結果、やはり条例は飲食店の数に悪影響を与えていないことがわかった(注3)。

 兵庫県でも2013年4月に同様の条例が施行されたため、こちらのデータも同様に解析した。差の差分析の結果、因果関係は認められなかった(注4)。

 もちろん売上のデータそのものを評価したわけではないので、売上に対する影響はゼロであると言うことはできない。しかし、少なくとも店が閉店に追い込まれるような大幅な売上減はないと考えてもよいだろう。

 塩崎恭久厚労相は3月2日の参院予算委員会で、「妊婦、子ども、がん患者らの健康が、喫煙の自由よりも後回しにされる現状は看過できない」と述べている。受動喫煙防止法案によって飲食店の売上には悪影響はないというエビデンスはすでに数多く存在している。

 よっていま行われるべきは、飲食店の売上に影響があるのかないのかの「水掛け論」ではなく、売上には影響がないという前提のもとで、日本はどちらの方向に進むべきなのかという議論なのではないだろうか。

(注3)厚生労働省「許可を要する食品関係営業施設数」の2006~2015年のデータを用いて解析を行った。データの分布を考慮し、負の二項回帰モデルを用いた。条例による飲食店の数の変化率は-1.8%(95%信頼区間:-38.1%~+55.7%)であり統計的に有意ではなかった(P=0.94)。サンプルサイズが小さかったため統計的有意にならなかった可能性もあるものの、飲食店数に悪影響があるというエビデンスは認められなかった。
(注4)神奈川県と同様の解析を行った。対照群として、京都、大阪、鳥取、岡山、徳島、香川を用いた。条例の施行によって飲食店数の変化率は-1.7%(95%信頼区間:-46.8%~+81.6%)であり、やはり統計的に有意ではなかった(P=0.96)。