つねに世間を賑わせている「週刊文春」。その現役編集長が初めて本を著し、話題となっている。『「週刊文春」編集長の仕事術』(新谷学/ダイヤモンド社)だ。本連載では、本書の読みどころをお届けする。
(編集:竹村俊介、写真:加瀬健太郎)

袖振り合うも全部ネタ元

 取材などで様々な人と出会うたびに、図々しいとうるさがられたりしながらも、その後もコンタクトしようと心がけていた。それを続けていくと、何人かはかわいがってくれる人が出てくる。記者デビューが30歳と遅かったため「後がない」と思ってがむしゃらにやっていた。

新谷学(しんたに・まなぶ)
1964年生まれ。東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒業。89年に文藝春秋に入社し、「Number」「マルコポーロ」編集部、「週刊文春」記者・デスク、月刊「文藝春秋」編集部、ノンフィクション局第一部長などを経て、2012年より「週刊文春」編集長。

 今でも現場の記者たちには「袖振り合うも全部ネタ元」だとよく言っている。どれだけ人に会うか、その出会いをどれだけ大切にするかに尽きる。ちなみにこの素晴らしい記者の心得を私に教えてくれたのは、「噂の眞相」から週刊文春に移籍したばかりだった西岡研介氏だ。

 こんなこともあった。オウム事件を追っていたある日、編集部に情報提供の電話がかかって来た。それはオウム関連ではない電話だったのだが、いろいろ聞いていたら「この話は×××(某テレビ局)の社会部の◯◯さんにもしてるんだけどね」という。「これだ!」と思い、すぐ×××に電話をかけ、「社会部の◯◯さんいますか」と言って呼び出した。「お忙しいところ申し訳ありません。情報提供の件なんですけど」「ああ、その話、俺も聞いたよ」となる。そこで「その件でちょっと1回お目にかかれませんか」とお願いしてみた。すると、その人がすごくいい人で、会ってくれることになった。

 ホテルのティーラウンジでお茶を飲みながら私は「情報提供の件もありますが、そもそも私は社会部のような取材をやったことがなくて、オウム事件もよくわからないんです。いろいろ教えてくれませんか」と頼み込んでみた。すると「いいよ、いいよ」という感じで丁寧に教えてくれたのだ。

 その人は当時、警察の記者クラブにいた。日曜日の夜など記者クラブのメンバーで食事に行くときに声をかけてくれた。「お前、時間あったら来いよ」と言って、他の記者を紹介してくれたのだ。そうやって、少しずつ人間関係ができていった。相性がよかったり、情報を持っていそうな人とは、特に用事がなくても「お茶を飲みませんか」「食事をしませんか」とこまめに会う。日常的な地道な努力が、いざというときに効いてくる。

情報源は赤坂のクラブのママさん

 私は入社当初から若い女性にはモテなかったが、料亭の女将やクラブのママにはよくかわいがってもらった。ときには彼女たちが貴重な情報源になることもあった。

 かつて赤坂に元芸者のママが経営する会員制のクラブがあった。小沢一郎氏をはじめとする大物政治家や、霞が関の各省庁の幹部クラス、大手企業の役員、そしてマスコミ関係者も常連に名を連ねていた。このママがなかなか強烈なキャラクターで、客商売とは思えないくらい好き嫌いが激しい。私は30代の頃から通っていたが、虫の居所が悪いと顔を出すなり「最近の文春はつまらないね」とか「新潮に負けてるよ」と言われて嫌な気分になることもあった。

 それでも私はめげずに通った。ネタ元との会食の後に一緒に連れて行くこともあれば、一人でも暇さえあれば足を向けた。ママの機嫌がいいと、芸者時代の昔話をしてくれる。大物右翼の児玉誉士夫や田中角栄とは縁が深かったようで、これは他の芸者さんの話だそうだが、「角さんは本当にせっかちで、ズボンを脱ぐのがもどかしくて待ちきれなくてね」などと話してくれた。まさに昭和の裏面史を教えてくれる夜の先生だった。

 そんなママとの会話の中からネタを拾うこともあった。ある有力代議士の愛人の話もそうだった。ある土曜日の夕方、パチンコ中のママを喫茶店に呼び出して、張り込んで撮った愛人の写真を確認してもらった。特集班デスクだった私は、ママの「間違いないわよ」の一言に、「よっしゃ今週もイケるぞ!」とこぶしを握りしめたものだ。

 ママの強烈なキャラクターのせいか一度行っただけで懲りてしまうお客さんもいて、商売は必ずしも繁盛しているようには見えなかった。それでも御勘定はいつも「学割にしとくから。出世払いでね」と本当に安くしてくれた。血の気の多かった私が新潮社の幹部と大喧嘩になったときには、ママと常連のベテラン参議院議員の二人がかりで止められた。警察官の団体を連れて行きカラオケ大会をしたこともある。

 そのママは、がんで亡くなってしまった。最後に病室で「ママ、俺だよ。新谷だよ。俺、絶対、週刊文春の編集長になるから。出世払いさせてよ!」と看護師さんの前だったが構わず必死で話しかけた。自分で自分の人事について口にしたのは、後にも先にもこのときだけだ。結局、出世払いは叶わなかった。