(3)「人生三毛作」──労働期間は長くなるのに企業の「旬の寿命」は短くなる
三つ目が「人生三毛作」です。今日、キャリアを考えるにあたって大変重要な二つの変化が起きています。一つは「現役年齢の延長」です。ロンドン大学のリンダ・グラットンは著書『LIFE SHIFT(ライフシフト)』の中で、寿命が100年になる時代には、現役年齢もそれに相応して長くなり、これまで60歳前後だった引退年齢が70~80歳になることで、私たちの現役期間が長期化することを指摘しています。これが一つ目の変化です。
二つ目の変化が、企業や事業の「旬の寿命」が短くなっている、ということです。会社の寿命については算出方法がいろいろあり、計算方法によっては過去と比較して長くなったりもするので厄介なのですが、重要なのは純粋な意味での寿命、つまり単に「倒産していない」ということではなく、活力を維持して社会的な存在感を示している時間がどれくらい継続しているかという点、つまり「旬の寿命」ということになります。
そして、さまざまな統計から示唆されているのは、この「旬の寿命」が短くなってきているということです。
日経ビジネスが帝国データバンクと共同で行った調査結果によると、活力を維持して事業を運営している、つまり「旬の企業」のうち、10年後にも旬を維持できているのはそのうちの約半数であり、さらに20年後になると1割程度の企業しか残れないことが判明しています。つまり、企業や事業の「旬の期間」というのは、ざっくり言って10年程度だということです。
一方、先述した通り、私たちの現役労働期間は長期化する傾向にあり、今後は多くの人が50~60年という長い時間を現役として働くようになることが予測されています。企業や事業の「旬の期間」が短縮化する一方で、私たちの生涯における労働期間は長期化する傾向にある。
これら二つの事実を掛け合わせると、非常にシンプルな示唆が得られることになります。それはつまり、今後のビジネスパーソンの多くは、仕事人生の中で大きなドメインの変更を体験することになる、ということです。
このとき、サーフィンのように「旬の事業・企業の波頭」をうまく乗り換えていくことができる人と、波にのまれてしまう人とのあいだでは、その人が享受できる「仕事のやりがい」や「経済的報酬」や「精神的な安定」という、総体としての「人生の豊かさ」には大きな格差が生まれてしまう。このような社会において、「独学の技術」が重要なスキルとなることは明らかです。
(4)「クロスオーバー人材」──二つの領域を横断・結合できる知識が必要となる
最後が「クロスオーバー人材」です。クロスオーバー人材というのは、平たく言えば「領域を越境する人」ということです。
昨今、人材育成・組織開発の世界でよく言及されるのが「Π(パイ)型人材」の重要性です。Π型人材とはつまり、「縦棒=スペシャリストとしての深い専門性」を二つの領域で持ちながら、一方では「横棒=ジェネラリストとしての幅広い知識」をも併せ持った人材のことです。今日のビジネスではさまざまな専門領域が密接に関わりあうようになってきています。
このような世界において、専門性だけを頼りにして蛸壺にこもるような人材のみで構成されたチームでは、イノベーションを推進していくことはできません。イノベーションという言葉の生みの親であるシュンペーターが指摘したとおり、イノベーションというのは常に「新しい結合」によって成し遂げられるからです。
この「新しい結合」を成し遂げるためには、それまでに異質のものと考えられていた二つの領域を横断し、これをつなげていく人材が必要になります。これがつまり「クロスオーバー人材」ということになります。
そして、言うまでもないことですが、Π型人材の横棒として表現される「さまざまな領域にわたる広範な知識」は、独学によって身につけるしかありません。
なぜなら、現在の高等教育機関のほとんどは、基本的に「専門家の育成」を前提にしてカリキュラムを組んでいるからです。今日、世界中の組織で「領域横断型の人材が足りない」という声が聞かれますが、なぜそのような人材が求められているかというと、世の中の仕組みがそういう人材を生み出すようになっていないからなんですね。
こうした要望を受けて、たとえばアメリカのハーバード大学やスタンフォード大学は、いわゆるリベラルアーツ教育をより重視したカリキュラムを組むようになってきていますが、すでに大学を卒業してしまった人が、このような広範な領域に関する知見を得ようと思えば、独学以外に頼るすべはありません。
しかし教養というものは、専門領域の間を動くときに、つまり境界をクロスオーバーするときに、自由で柔軟な運動、精神の運動を可能にします。
専門化が進めば進むほど、専門の境界を越えて動くことのできる精神の能力が大事になってくる。その能力を与える唯一のものが、教養なのです。だからこそ科学的な知識と技術・教育が進めば進むほど、教養が必要になってくるわけです。
――加藤周一他『教養の再生のために』