皆さん、こんにちは。自分で言うのもなんやけど、「採用の神さま」小畑重和です。
今回は、先週の続きです。
30年前、1981年の初秋。ボクが大学4年生だった頃の就職はどうだったのでしょうか。
大学進学率30%ほどで、大学生の総数は今の6割くらい。男女雇用機会均等法の施行前で、大卒女子は就職がない、文学部は就職がない、理学部・農学部もきびしい、教育学部は先生にしかなれない――。
女子や文学部などの学生には求人情報さえ届かず、OBがいないからリクルーターも来ない。言わば、性差・学部差で就職の厳しさが全然違う時代でした。そんなリスクは、入学前からみんな知ってましたけどね。
「ダメだったら留年すればいいや」
30年前のボクも安易な留年を考えていた!
さて、ボクの就活話の続き。
当時も今のように就職協定はありましたが、青田刈りが盛んでした。10月1日は、説明会・選考解禁日にもかかわらず、青田刈りした内定者が他社に行けないよう、彼らが“拘束される日”でもあったのです。10月1日に向けて企業は、水面下で内定を出し始めました。
「経営の神さま」面接に落ちたボク(前回参照)は途方にくれていたけど、意外と喜んでくれていた人がいたことを知りました。
「落ちたか!それはよかった!(笑)」
「よくないですよ、まったく。島田さんのせいで落ちたんですから!あの時会わへんかったらよかった」
日本リクルートセンター(現在のリクルート)の島田さんは、落ちたことを失礼にも喜んでくれてました。
「うちに来ないか?」
「はい?そのお言葉はありがたいですけど…。すいませんけど行く気はありません」
「どうするの?」
「時間はあんまりないですけど、いろいろ探してみます。なければ留年でもします」
「また、報告に来いよ!」
「はーい!」
今、安易な留年を否定しているボクも、安易な留年を考えてたわけです(笑)。