リーダーは「厳しさ」をはき違えてはならない
しかし、世の中には「厳しさ」をはき違えているリーダーも多いと感じます。
私が、特に違和感をもつのは、若いころに自らが受けた理不尽な経験を、次世代にも強いようとする人々です。「俺はお前よりももっと厳しいことをやらされてきたんだ。このくらい当然だ」。こんな言葉を吐く上司をもったことがある人は多いのではないでしょうか。しかし、私には、「厳しさ」をはき違えているとしか思えない。こんなものは「厳しさ」でもなんでもない。ただの“部下いじめ”だと思うのです。
私も、それなりに理不尽な経験をしてきました。
特に感じたのは、トルコ駐在を命じられたときでした。入社2年目でタイ駐在を命じられたときは、大学で学んでいたタイ語を活かすチャンスでもありましたから、むしろ積極的にとらえていました。もちろん、当時のタイの生活環境は、敗戦後間もない日本とあまり変わらない。海外部門の花形だったアメリカやヨーロッパに配属された同期と引き比べて、一抹の寂しさはありましたが、「若いうちの経験だ」と割り切ることができました。
しかし、その後、日本本社勤務を経て、トルコ駐在を命じられたときには、「またか……」と愕然としました。しかも、当時トルコには事務所すらなかった。つまり、私がひとりで事務所を立ち上げて、中近東の新しい拠点づくりをしろという命令だったのです。「次はヨーロッパかアメリカかな?」などと考えていたこともあり、「なんで俺が……」と割り切れない思いがしたものです。
何より、問題だったのは単身赴任以外に選択肢がないことでした。
当時、私は結婚をして小学生の子どももいました。だから、なんとか一緒に生活できないかとトルコの状況を調べ尽くしたのですが、とてもではないが家族を連れていくことはできない状況でした。
今の発展したトルコの状況からは想像もできないでしょうが、当時は、お店の棚には商品がほとんど並んでいないような状況だったのです。1982年に国がデフォルト(破産)してから間もない時期だったため、質のよい輸入品が全くなく、あるのは国産の劣悪品のみ。そのうえ、ひどいインフレで、毎週価格が上がっていきました。
外国人が住めるアパートも少なく、なんとか家具付きで借りた部屋も、素晴らしいのは外の景色だけ。カーテンもついていないので、仕方なくベッドのシーツを画鋲で窓枠に留めたものです。家族が遊びに来て、「トルコのカーテンは開かないのね」と言われたときには、笑うほかありませんでした。
このように、生活環境としては劣悪だったうえに、駐在地のイスタンブールには日本人が数十人しかいなかった。そして、日本人学校は遠く離れたアンカラにしかないし、インターナショナル校などもありませんでした。
しかも、隣国ではイラン・イラク戦争が起きていた。いわば戦時下にあったわけです。そんな場所に、家族を連れていけるはずがありません。だから、私は泣く泣く単身でトルコに駐在。ゼロからひとりで事務所を立ち上げ、中近東担当地域へのアプローチを始めたのです。
もちろん、このときの経験が、その後の私をつくってくれたのは事実です。
むしろ、アメリカやヨーロッパなどの花形部門に配属にならなかったことを感謝しているくらいです。なぜなら、世界は白人文化だけで成り立っているわけではないことを骨身に沁みて学ぶことができたからです。それに、アメリカやヨーロッパは組織が大きいために、組織の歯車として働くほかありませんから、まとまった仕事をひとりで任されることも少ない。ましてや、会社全体を動かす経験をすることができませんから、オーナーシップ(詳しくは連載第4回)の感覚も身に付きにくいというデメリットもあるのです。
しかも、その後、市場として急進したのは、私が若いころに渡り歩いた発展途上国。いまや、こちらが花形と言ってもいい状況です。若いころに「花形」だった部門が、キャリアを重ねたのちも「花形」であることは、むしろ稀。その意味で、若いころに、東南アジアのタイや中近東のトルコでの駐在を経験できたのは、私にとっては幸運だと言えるのです。