80年代後半から90年代半ば頃までの中国人留学生の生活ぶりは、現在の留学生とは雲泥の差があった。家賃数万円、風呂なしの6畳一間のアパートに5~6人、下手をすれば10人近くで住みつき、騒音やゴミ出しなどのマナー違反が頻繁に問題になっていた。家賃7万円の一軒家に3人で暮らしていた謝鳴は、まだましなほうだった。

 日本語学校が修了すると、恵比寿にあったフラワーデザインの専門学校に入学。学業とバイトで超多忙な日々が続いた。

「美しいものや、芸術的な分野に興味があったので、お花の学校を選びました。多くの留学生は、学業そっちのけでバイトや悪いことに励んでいたけど、私は違った。勉強も仕事も両方頑張った。私、結構、頑張り屋さんなんですよ」

 しかし、昼間は学校、夕方からは肉体労働で働きづめの生活はすぐに限界に達する。謝鳴は、必然的に夜の歌舞伎町にたどり着いた。

恋人と別離、最初の結婚
そして歌舞伎町の歌姫に

 バブル期の歌舞伎町は、“風俗タウン”全盛時代だった。街には、どぎつい原色のネオンが氾濫し、今の時代ならあり得ないようなえげつない風俗店の看板が林立、パンチパーマの強引すぎる客引きが跋扈していた。“日本一怖い繁華街”というイメージが一般的だった時期でもある。

 日本人風俗が隆盛を極める一方、クラブやスナック、キャバクラなどが入ったビルが軒を連ねる区役所通りでは、台湾、韓国、フィリピンなどの外国人勢力がシノギを削っていた。