サイエンスに近く敷居の高いファイナンスを
「センス」として伝える

楠木 もう一つ、ファイナンスの特徴として、ハードコアな理論が精緻にでき上がっている世界なので、理論を正面から理解しようと思っても敷居が非常に高い。ビジネスに関わる学問において、ファイナンスは一番サイエンスに近いと思います。ノーベル経済学賞をとるのもファイナンスの人が多いですよね。
 コーポレート・ファイナンスを少し逸脱しますが、たとえばユージン・ファーマ先生がノーベル経済学賞を受賞した「効率的市場仮説」。こういうのは、ほんとに科学的だと思いますね。あらゆる情報は今の価格に反映されていて、したがって市場にはミスプライシングはないという仮設が実際に超長期で実証的に確認されている。
 一方で、僕が専門とする競争戦略の分野では、自然科学に近い法則は定立しづらい。競争戦略という分野の生みの親であるマイケル・ポーター先生は偉大ですが、ノーベル賞は難しいでしょうね(笑)。科学的な法則ではなく、論理の体系だから。

朝倉 再現性が不透明ですし、法則化するには、前提条件が限定的になりすぎそうですよね。

「ファイナンス思考」はビジネスに必要なセンスの最たるものだ=楠木建×朝倉祐介<特別対談 前編><br />「ファイナンスの理論を経営者が応用するのはかなり難しい」(楠木さん)

楠木 僕は米国のディメンショナルというアセットマネジメントの会社の競争戦略に興味を持っています。ディメンショナルが主催するカンファレンスでスピーカーをしたときに、ちょっと面白いことがありました。スピーカーの控え室に入ったら2人先にいて、それがどちらもノーベル賞受賞のファイナンス科学者(笑)。ロバート・マートン先生とマイロン・ショールズ先生(*)ですね。

 「君は何やってんの?」と問われたので「競争戦略というマネジメントの一分野で、競争の中で会社が儲かったり儲からなかったりする、その背後のロジックを考えています」といったら、もう全然違った世界を見るような顔つきをされて(笑)。で、マートン先生いわく「それ、単に個別の主体の意思決定じゃないのか」と。それを言っちゃあおしまいよ、という話なんですけど。
 彼らのファイナンス理論はすばらしいと思うんですよ。理論的に精緻で堅牢であるだけでなく、実際に社会に応用されて役立っている。ところが、こうした理論を実際に経営者がコーポレート・ファイナンスで応用するのはかなり難しい。効率的市場仮説や「ファーマ・フレンチ・スリー・ファクター・モデル」はコーポレート・ファイナンスとはあんまり関係ないんですね。だから、理論そのものでなく、ファイナンスをセンスとして教えてくれる本はいいなと思ったわけです。

* マイロン・ショールズはフィッシャー・ブラックとともに、オプションの価格算定式であるブラック=ショールズ・モデルを1973年に発表。同モデルはシンプルすぎるなど批判にさらされてきたが、後にロバート・マートンが数学的に実証し、ショールズとともに97年にノーベル経済学賞を受賞した(ブラックはその2年前に病死)。両者は、ソロモン・ブラザーズで伝説的トレーダーとして名をはせたジョン・メリウェザーが設立したヘッジファンドLTCM(ロングターム・キャピタル・マネジメント)に加わったが、98年のロシア債務危機をきっかけとして突如破綻を迎え、理論と実務のギャップも指摘された。

「理屈じゃないんだ」と言える人は
「理屈」を理解し、「運」を引き寄せる

朝倉 これは自分の経験から思うことでよく話しているのですが、事業を含めて物事の成否を分ける要因として、「理・心・運」があるんじゃないか、と思うんです。「理」というのは頭で考えるロジックのこと。戦略を立てることも含まれますし、ファイナンス思考というのはこれに入ると思います。次に「心」というのは、考えたことを組織で実践すること。最後に「運」というのは読んで字の如しで、ツキですよね。じゃあこの3つがどのぐらいの比率で成功に影響するかというと、禅問答で正解があるわけではないのですが、僕なりには「理・心・運=1:4:5」じゃないかと思っているんです。

楠木 まったく賛成です。僕の仕事というのはロジックの提供であって、自分でビジネスをやっているわけではありません。「机上の空論」「お前に何ができるんだ」と言われ続けて27年経ちます(笑)。そういう批判は一理ある、と僕も思います。だって、ビジネスの結果に対して、ロジックの説明能力は1~2割ぐらいでしょう。

 たとえば、ファーストリテイリング(ユニクロ)の柳井正さんによく「学者の意見は役に立たない。商売は理屈じゃない」と言われるのですが、当の柳井さんがかなり理屈っぽい人なんですね(笑)。ただ、考えてみればこれは当たり前の話で、「理屈じゃない」って言えるのは理屈がわかっている人だけなんですね。理屈がわかっていないと、「理屈じゃないもの」が何だかわからなくなるから。

「ファイナンス思考」はビジネスに必要なセンスの最たるものだ=楠木建×朝倉祐介<特別対談 前編><br />「できない理由を膝突きあわせてつぶしていくのが”心”の部分」(朝倉さん)

朝倉 「理屈ではこうだ」と言ったって、現場で単に唱えていても、現場には現場なりに理屈どおりに実践できない事情がいくらでもある。だから、そういうできない理由を膝突きあわせて少しでも多く潰していくというのが「心」の部分だと思うんです。

 そのためには、ファイナンスの純粋な理論を100%理解する必要はないんですが、エッセンスだけは知っておいて、現場にどう埋め込んでいくか、考えることができればいいんじゃないかと。

 もちろん、そうした実務家の活動は、正統なファイナンス理論やその専門家からいえば満点ではないかもしれないけれども、まったく知らないのとエッセンスを理解して行動するのとでは天と地ほどの違いがあります。だから、実務家の方がファイナンスの教科書を読んで納得するだけじゃなくて、過去にどういった事例があって、実際にどんな決断があったのか、そうした行動をどうやったら自分たちもできるのか、ビジネスの現場で実践することができるんだろうか、と考える橋渡しになればいいという気持ちを込めて、今回の本を書きました。

楠木 よくできたファイナンスの教科書というのはすでにあって、さまざまな理論やモデルが紹介されています。ただ、そうしたモデルが法則として成立するには、一定の前提条件が必要なので、実際のビジネスの現場で応用できる場面がかなり限定されます。たとえば効率的市場仮説は株式市場には適用されますが、情報の非対称性が解消されていない不動産取引市場には応用できない。だから、理論から実際の現場に役立つ思考をちょうどいいさじ加減で抽出してくれる本の有用性は高いと思います。
(明日公開の後編に続く)