人間は人生に絶望しても、人生は人間に絶望しない

 人生がうまくいかなくなると、人は「こんな人生に意味があるのか」と問いかけます。一体それは誰に、何に問いかけているのでしょう。人生にでしょうか。運命にでしょうか。

 人生も運命も言葉を持ちません。答えは与えてくれません。だから虚しさは募るばかりです。

 さらにいえば、「人生にはどんな時にも意味がある」と考えるのがフランクル心理学ですので、「意味があるか、ないか」という問いそのものが必要ありません。

 そこでフランクルは、人間とは生きる意味を「問う存在」なのではく、人生から「問われている存在」だと主張します。「問う者」から「問われる者」へ。そう認識が変容した時、自分のやりたいことを実現しようとするのではなく、人生とは自分を越えた何かからの問いに答え続けるプロセスだと理解できます。

 問われ答える存在であることが腹落ちした時に、虚しさは消え去り、一種の開き直りのような感覚とともに「新たな生きる意味」が生まれてきます。この新たな意味が逆境に負けない強い心を作り出してくれるのです。フランクルはこう書いています。

「人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである」※2

 キャリアの挫折を独り実感した夜、人生はあなたに問いかけました。「それで、あなたはどうしますか?」と。「あなたのことを待っている人やもっと他にすべきことがあるのではないですか?」と。

 この問いに、人は具体的な行動で答えていくことで「新たな生きる意味」を見い出します。自分の出世にこだわっていた上司が部下の教育に目覚め、仕事人間が家族との時間に「生きる意味」を発見していくように…。

 生きる意味を問うことの不毛さに気づいた人は、心が外の世界へと向かいます。それまで生き方の軸足を自分に置いていた人が、自分以外の何かに生きる重心を置くようになるのです。これは自己中心性からの脱却であり、人としての大きな成長です。

 人生とは生きる意味の喪失と発見の連続です。

 絶望の中に希望の種が隠れているものです。人生に絶望しあきらめてしまうのはいつでも人間の方です。人生は決して人間に絶望しません。あきらめません。問いを出し続け、新たなステージへ導こうとし続けます。

 今、どんな問いが出されていますか。その問いに正しい行為によって答えれば、人生に意味が、希望が生まれてくるのではないでしょうか。

◇引用文献
※1-2『夜と霧』(V・E・フランクル[著]、霜山徳爾[訳] みすず書房)