TBSラジオ『Session-22』でパーソナリティを務め、日々、日本の課題に向き合い続けてきた荻上チキによる新刊『日本の大問題――残酷な日本の未来を変える22の方法』が7月19日に刊行された。【経済】【政治】【外交】【治安】【メディア】【教育】――どこをみても「問題だらけ」のいまの日本の現状と、その未来を変えるための22の対応策がまとめられた同書のエッセンスを紹介していきます。
再犯率を下げるためには
日本の治安に関して、いまだに、犯罪が増加している・凶悪化しているという言説はあちこちで聞かれます。象徴的な事件が起こると、何か時代が変質したのだと煽る言説が氾濫し、「心の闇」「時代の歪み」「絆の崩壊」「モラルの低下」といったチープな表現が出回ります。
どの時代でも若者批判がありふれているのと同じように、あるいはどの時代においてもニューメディアが社会を壊すと言われるのと同じように、今の時代が何か悪くなっているという感覚は、なんとなく広範に感染しやすい。犯罪の増加言説は、今やその一つとなりました。
たとえば内閣府の「少年非行に関する世論調査」では、「少年非行は増加しているか」という質問に対して、実に8割近くの人たちが「増えている」と答えている。ところが実際は、日本の犯罪は過去最少を連続して更新し続けています。
とはいえ、日本は「再犯率」を下げるための対応ができているかと問われれば、難しいところがあります。
まず、どうしたら再犯率は下がるのか。ここで考えたいのは、仮釈放者のほうが満期釈放者よりも、再犯率が低いという一つの傾向です。
仮釈放者と満期釈放者の大きな違いは、仮釈放者は保護観察の対象になるということです。保護観察の期間は、不用意に再犯はしません。その理由として、監視されているからということもあるでしょう。ただ、それだけではなく、保護観察官という伴走者がいることで、困ったことを相談できる。コミュニケーションをする相手がいる。つまり、生き方を再構築するきっかけを与えてくれるような相手がいるということも大きいと思います。
しかし保護観察が切れた後に、罪を犯すケースは多く見られます。満期釈放者の場合もそうですが、出所しても居場所がなく、孤独感を感じたり経済的に立ち行かなくなったりして、ブレーキが利かなくなってしまう。少年非行にかぎっていえば、昔の非行仲間との縁が復活してしまうこともある。
このように再犯率のデータから見えてくる傾向があるならば、その対策として、出所後の雇用や居場所の確保をサポートすることが有効だということもわかってくるのです。また、そもそも犯罪そのものを減らすためには、加害者にならないで済む権利を、社会システムとして実装していく必要があります。
日本の刑法思想は「懲罰主義」
ところが日本では、刑法の思想が懲罰主義になってしまっています。犯罪を減らすために刑罰を与えるのではなく、因果応報の罰を与えることをよしとする。罪を犯した人には、恨みを持つ個人の代わりに、法治国家が代行して、痛い目に遭わせる。そういうふうに刑罰を捉えてしまっているわけです。
国家は国民から暴力を取り上げて一元管理する。そして警察や軍は、法に則って暴力を遂行する。政治学で言うところの「暴力装置」です。その装置は、適切な認識のもとでコントロールされなくてはなりません。
しかしここしばらくは、共謀罪、司法取引や盗聴法の拡大、厳罰化など、「暴力装置」の権限を拡大する議論が大きく進行しました。他方で、刑事司法において、性犯罪被害者やストーカー事案、ジェンダーが深く関わる分野など、質的な向上を求められる部分がなかなか進みません。
たとえば、例外的な事件により、悲しい物語が生まれ、それがメディアで拡散されたとき、「不幸な事例を繰り返すな」と盛り上がり、立法化などにつながる。こうした「トラウマ型立法」には、良し悪しがあります。
厳罰化は社会のためになるのか
児童虐待で子どもが亡くなってしまった事件を受け、そもそも児童虐待全体に対する十分な対処ができていないことが見直されるなど、「氷山の一角」への慎重な対応ということが必要となる。一方で、「氷山の一角」ではないような「例外的事例」についても、同様の盛り上がりを見せてしまうことがあります。
「トラウマ型立法」の著しいケースは、厳罰化をめぐる議論です。最近の例で言えば、道路交通法改正のなかで、厳罰化が進みました。そこでは、てんかんなど特定の病名を指定したことが問題になりました。てんかん患者が事故を起こしたことが連続で取り上げられたことへの対応ですが、就業の問題など、患者への差別的待遇が強まることはほとんど考慮されていません。
事故率に影響する病気はほかにもあるし、てんかん患者の事故率が著しく高いわけではないという指摘があるにもかかわらず、差別や排除を加速させるような議論が行われたのです。
病気と差別の関連でいえば、障害のある被告人に対して、社会に出てきても受け入れ先がないという理由で、判決の量刑が求刑よりも重くなったというケースがありました(大阪地裁2012年7月30日判決)。社会の側に居場所がないのであれば、福祉政策などによって、社会からの排除と犯罪への引力を遠ざけていくことが必要です。しかし、司法の理屈だけからは、そういう議論はなされません。つまり、刑罰を与えることが、どのようにして安全な社会を実現することにつながるのかという議論が脆弱なのです。
ありがちなのは、厳罰にすれば抑止効果が働くという見方や、禁固刑にするとその間は犯罪者を「無力化」する効果があるという考えですが、はたしてそれが犯罪の少ない社会の実現にどれだけ貢献するでしょうか。
厳罰化を求める人たちには、「加害者の人権ばかりが強調されて、被害者の感情がおろそかになっていたではないか」という意識があります。そもそも加害者の人権がそれほど守られてきたのかすら疑問ですが、被害者やその家族のケアが重要であることは間違いありません。
ただ、その問題をそのまま厳罰化と直結させることが、はたして安全な社会の実現につながるかどうかは疑問です。そもそも「厳罰化」とは、「刑期を延ばすこと」にほかなりません。刑期を延ばすと、その分、刑罰にかかる費用が増していくことになります。つまり、厳罰化は刑期予算の拡大を求めることです。では、その予算拡大でいかなる効果が出るのかを見る必要があります。
また、厳罰化によって刑務所にいる期間が長期化すると、加害者となった人物が社会から離れている期間がより長くなるため、社会復帰がより難しくなります。となれば、犯罪の種類によってはむしろ、再犯率を上げる可能性もあります。でも現実には、そういった議論になかなか進んでいきません。