誰のものでもない「いのち」
「今、いのちがあなたを生きている」
これは、真宗大谷派東本願寺の「親鸞聖人七百五十回御遠忌」のテーマでした。
最初読んだときは、正直なところ、なんだか変な言葉だと思いましたが、よくよく考えると実に深い言葉なのです。通常、「あなたのいのちが」とするところでしょう。しかし、「いのち」は誰のものでもありませんし、わたしの所有物でもありません。そう考えると、「いのち」が主語になるのです。
仏陀の教えを短い言葉で伝えた『法句経』の中に次の一節があります。
「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。
しかしすでに自己が自分のものではない。
ましてどうして子が自分のものであろうか。
どうして財が自分のものであろうか。
中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』(岩波文庫)
お釈迦さまのおっしゃるとおり、そもそも「自己が自分のものではない」。ですから、いのちを含めたさまざまなもの(子・財など)を「自分のもの」としてしまうのは誤った感覚であり、そのような感覚がわたしたちに悩みや苦しみをもたらす原因となっています。
自分探しではなくて「自分なくし」
では、自分っていったい何でしょうか?
一時期、「自分探し」が流行りましたね。いまも「ほんとうの自分」を探し続けている人もいるかもしれません。これもまた、「自分」にとらわれている生き方といえます。
「自分探し」をされている方には大変申し訳ないですが、本当の自分なんてものはこの世には存在しません。そのことを強く認識し、現状をあるがままに受け入れる。これが仏教的なスタンスと言えるでしょう。
仏教に造詣の深いイラストレーターのみうらじゅんさんは、『自分なくしの旅』(幻冬舎文庫)という本を著しています。京都から上京したみうら青年が、自分を見失った果てに見出したことがまさに「自分なくし」であり、彼はそうすることを提案しています。
「自分」や「自分のもの」という意識を完全になくすことは、生きている限り不可能かもしれません。しかし、「自分」という概念が生きていくうえで苦しみや悩みを生み出す大きな原因となっていることだけは覚えておいたほうがよいでしょう。
一度、ぜひ「自分」というものについて考えてみてください。
(解説/浄土真宗本願寺派僧侶 江田智昭)