自分の思いが行き詰まる
「人生が行き詰るのではない
自分の思いが行き詰るのである
安田理深」
これは台東区浅草のお寺の標語です。安田理深師(1900~82)は高名な仏教学者で、浄土真宗大谷派の僧侶でした。
人生は「諸行無常」の言葉どおり、それ自体は淡々と流れていくものです。しかし、私たちはさまざまな思い込みを持つことによって、人生の歩みを困難なものにしてしまっています。目の前に起こることすべてをあるがままに受け入れることができれば良いのですが、そうすることがなかなかできず、思いが行き詰まってしまうのです。
安田理深師の自宅が火事にあった時のエピソードを以前聞いたことがあります。隣家から延焼して、学者の命ともいうべき重要な蔵書やノート類がすべて焼けてしまいました。普通の人間であれば計り知れないほど大きなショックを受けるでしょう。しかし、安田師はこのように語ったといわれています。
「焼かれた」のでもない。「焼いた」のでもない。ただ「焼けた」と。
そうすると事実を事実のまま受けていけるのではないか。
自も他も損なわんで済む。こんなことを今度の火事で学びました。
火災を他人のせいにして他者を憎むのではなく、自分のせいにして自身を責めるのでもない。目の前に起こった事実を事実のままに受け取めることができれば、確かに自分も他者も損なわれません。
しかし、わたしたちは出来事のショックが大きければ大きいときほど、それによって自分や他者を損なうような思いにずっと引きずられてしまい、その苦しみから離れることが難しくなります。
災いから学ぶ
次の標語も台東区のお寺のものです。
「仏教は都合よく生きられたら幸せだ
という夢から覚める教えです。
仏教は不安を取り除くのではなく
不安に立つ教えです」
仏教に触れたからと言って、都合よく生きられるわけでは決してありません。好むと好まざるとにかかわらず、生きているとさまざまな災いが必ず降りかかってきます。
先ほどの火災のエピソードの中で、安田師は最後に「学びました」とおっしゃいました。
「学んだ」ということは、おそらく火災直後は少なからずショックを受け、心の中に葛藤があったのだと思います。高僧であっても人間ですから、災難の直後にそれらから逃れられないのは当然のことです。
むしろ、目の前で起きた辛い出来事を「師」とし、そこから学びや対応の仕方を与えてくれるのが仏教なのです。この世界に生きていると、葛藤や不安が完全におさまることはありません。災いや不安・葛藤を前にした時、仏教にヒントを求めて、命ある限り謙虚に学び続けていく姿勢が重要なのではないでしょうか。
11月23日(金)深夜放映予定の「タモリ倶楽部」(テレビ朝日系)で、「輝け!お寺の掲示板大賞」特集があります。わたしも解説役として出演しておりますので、よろしければご覧ください。
(解説/浄土真宗本願寺派僧侶 江田智昭)