君たちがいて僕がいる
「君たちがいて僕がいる(チャーリー浜)」
今回は香川県観音寺市にあるお寺の掲示板からお届けします。
チャーリー浜さんは吉本新喜劇を舞台にコメディアンとして長年活躍され、「~じゃあーりませんか?」というギャグで1991年に流行語大賞を受賞しました。弟子の山田花子さんともども、新喜劇の存在を首都圏の人にも知らしめた第一人者です。
そのチャーリー浜さんのもうひとつの有名なギャグが「君たちがいて、僕がいる」。
40代以上の人たちの大半は、このフレーズを覚えているのではないでしょうか。
「なぜチャーリー浜がお寺の掲示板に?」と思われる方もいるかもしれません。これは仏教の「縁起」の教えにも通じる言葉なのです。
『自説経(じせつきょう)』の中にこのような言葉があります。
「これある故(ゆえ)にかれあり、これ起こる故にかれ起こる、これ無き故にかれ無く、これ滅する故にかれ滅す」
これは、すべてのものはお互いに深くかかわりあいながら成立しており、完全に独立して存在しているものはないことを意味しています。
人間同士の関係も、すべて「縁」によってつながっています。まさに「君たちがいて僕がいる」という言葉に通じているのです。
私を私たらしめているのは私ではない
2つ目の標語も同じく一心寺さんの掲示板から。
「私を私たらしめているのは私ではない」
これもまた、「縁起」の考え方によるものです。以前、みうらじゅんさんの「自分なくし」についてご紹介しました。私たちは、「自分」という存在をいつも前提にして生きているため、そこから多くの悩みが発生するというお話でした。
すべての物事は関係性の中で存在しているため、その中で確固たる「自分」というものは存在しません。そもそも、自我というものは幻想であり、それをいくら探し求めても無駄なのです。
お釈迦さまは「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」(『中阿含経』)と説かれています。「法」とは仏さまの教えを意味しますので、「縁起の道理を理解するものが仏教を理解する」 ということになります。
ですから、「仏教を知るひと」というのは、「私を私たらしめている目には見えないさまざまな関係性に気づいているひと」のことであり、自分の命がさまざまな縁から成立していて「生かされていることに気づいているひと」だとも言えるでしょう。
君たちがいて僕がいる。この言葉を単に吉本新喜劇発のギャグとしてではなく、世界の真理としてもとらえられるようになりたいものです。
さて、多くのみなさんからご投稿いただきました「輝け!お寺の掲示板大賞2018」ですが、12月5日に受賞作を発表することになりました。本連載でも、5日から5回連続で受賞作品の紹介をする予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
(解説/浄土真宗本願寺派僧侶 江田智昭)