顕在化するグローバル化 空転する目標
日本は、「移民を受け入れない国だ」と言われている。「他国に比べ外国人を受け入れたがらない風土だ」とも。確かに、医療・介護分野における入国規制の緩和など、政府主導で外国人流入をうながす近年の政策はなかなかうまく進んでいないように見える。
だが一方で、留学生、あるいは農業・製造業分野での研修生、そして都市のコンビニや居酒屋、牛丼屋のアルバイトといった労働力として、さらには地方における「農家の嫁」のような「正規の結婚相手」としても、日本は確実に外国人の受け入れを進めている。
あらためて言うまでもないことだが、本件をもって在日外国人と偽装結婚を短絡的に結び付けるようなイメージ形成がなされることは、絶対に避けなければならない。日本人との正規の結婚を経て生活している在日外国人のほうが、当然ながら大多数だ。フィリピンやそのほかの経済的に貧しい国の出身者が、既に、そして常にスティグマ(負の烙印)を負い続けている事実にも目を向けていくべきだ。
むしろ、ここから理解すべき点は2つ。「現代のフィリピーナ」が生成された歴史的系譜が示すとおり、日本のグローバル化は今に始まったことではなく、バブル以前、あるいは戦後経済成長の初期から進んでいたことが顕在化してきた結果にほかならないということ(外国人が日本に入国するうえで、結婚がある面では重要な道具となり、武器となってきたのも今に始まったことではない)。そして、それがいよいよ社会的に可視化されようとした時、あるいは可視化されるのを抑えきれなくなった時になってはじめて、明確な社会問題として構築されたという、ほとんど認識されることのない事実である。
しかし、その「社会問題」が、単に「○○っていう国は、○○人は、○○だからダメだ」と乱暴なステレオタイプの中に押し込んだうえでなされる移民排斥や、逆に「外国人に優しい社会」を理想の上で語るような同化志向のなかでのみ扱われるのであれば、進行するグローバル化が生み出す諸問題の解決という目標に近づくことは、より困難な状況にあるだろう。