「言葉にできる」はウンコ!?
「意味の時代」に求められるコミュニケーション
尾原:もう一つ「情報量を上げる」ために、今までは言語に依存していましたが、今は言語化できない・言葉じゃないもので伝える方がユニバーサルなんですよね。
言葉に依存すると、英語や日本語など各国語に依存する傾向ができますが、音と映像に昇華すると、どの国の人が見ても、心が揺れ動くことになる。つまり言葉がグローバルではない日本語の我々にも、逆転できるチャンスがあるわけです。
以前、チームラボの猪子寿之さんと対談したときに、彼は「言葉にできるってウンコなんですよ!」と言ってたんですよね(笑)。言葉にできて伝えられた時点でもう価値がない、言葉にできないくらいの何かがある、というものこそ新しい価値なのだと。
山口:仏教で「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があります。悟りは言葉にできない、ということなんですが、言葉に頼らないということが、確かにニュータイプの一つの要件かもしれないですね。
「役に立つ」は必ず効果関数で記述できるし、言葉・知識で書けますが、意味は場合によっては言葉にならないかもしれないし、言葉にするとこぼれてしまう。
僕はこれを、元ほぼ日の篠田真貴子さんと話した時に感じました。糸井重里さんは言葉の天才ですが、「だからこそ語らない」というんです。話すと嘘になることがわかっているし、嘘になると自分が一番さび付くとわかっているので言葉にできないというんですね。
そうすると伝統芸能を習っているようになって、「こういうことですか?」というと、「……違う」「こういうことですか?」「……ちょっと違う」と。その問答を毎回続けていくと、少しずつ形が見えてくるコミュニケーションが取れるようになると。
まさにやり取りの中で、不立文字の真ん中が伝わっていくというのが、糸井さんのマネージメントらしくて。言葉にならないものを伝えるというコミュニケーションが、それだけ豊かになっていくというわけです。
尾原:言葉にするのは、「役に立つ」時代には有効でしたが、「意味」を探していく時代には、言葉にできないことによって意味を重層化させていくことが大事です。
例えば、インスタグラムって、「意味」を浮かび上がらせるコミュニケーションですよね。言葉にして「役立たせる」のではなく、暮らしに関わる写真が、天気や季節に合わせて、毎日毎日アップされていく。それを見た人は、私はこういう暮らしをしたかった、私のことわかってくれている、と共感する。
それによって、糸井さんとの問答じゃないですけど、「意味」が徐々に浮かんでくるのだと。もしかしたらインスタグラムは、「役に立つ」から「意味がある」を加速させているのかもしれませんね。
山口:そういう意味では、やはりウェブが偉大だと思っています。ある個人や企業が、テレビ、マスコミを使わずに自分なりの「意味」についてコミュニケーションできるようになり、その多様化により、出し手も受け手も自分の「居場所」を見つけられるいい時代になりました。
尾原:だとすると、意味は「居場所」と捉えてもいいかもしれない。マズローの欲求5段階説で「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」「承認の欲求」「自己実現の欲求」がありますが、実は今って、フェイスブックなどによって承認欲求は満たされている。
一方で、「所属欲求」は満たされていない。だからこそ、「意味」とはすなわち、あなたはここにいていいんだよ、こういう存在になりたいんだよ、という居場所と捉えると、わかりやすいのかなと思いました。
山口:自分の居場所感というのは確かにあると思います。パタゴニアを着ている人の中には、着ている人だけがいられる(バーチャルな)島に自分がいる、という感覚がある。サステナブルでエコな島の住人だという市民権が与えられていることを意味し、所属欲求が満たされるわけですね。
尾原:「役に立つ」から「意味」へ価値が転換した今、居場所を作ってあげられる人間が、次の時代の一つのニュータイプの形かもしれないし、あるいは自分の居場所を早く見つけていくことがニュータイプの在り方なのかもしれませんね。(対談記事終了)