「『ちょっと!』と押し返そうとしてもなかなか動かず、会長は俊敏に立ち上がって私の首筋にむしゃぶりついてきた」

 これはその手の創作物の台本ではなく、現代日本で実際に起きた一幕である。

「あの生暖かい感覚が、ナメクジがはっているようで本当に気持ち悪くて、精いっぱい押しのけると会長はよろけて、『何をする!』とまた怒り狂っていたが、『警察に連絡しますね』と言って、怒鳴り声を背中に聞きながら会社を飛び出した。

 結局通報はしなかったが、周りには『よだれジジイ』というタイトルで顛末(てんまつ)を話しまくっていて、ウケる鉄板エピソードとして重宝している」

 順当にいって会長の振る舞いは刑事事件に値するが、このDさんのたくましさは相当なものである。普通の生身の人間も妖怪化することがある例を伝える貴重なエピソードであった。

 これら“生身の人間による怪談”で本当に怖いのは、同様のことが自らの身に降りかかるかもしれない点と、登場人物の異常性が実は誰しもに内在しているかもしれない、という点である。

 霊を信じていない人が「霊なんていないから自分は関係ない」と霊由来の怪談を切り捨てるのと違って、人間由来の怪談は社会で生きていく以上、体験する可能性が必ず残る。また、同じ人間である以上、普段は潜在意識下に抑圧している自分の異常性が、条件や環境がそろえば発露してしまうかもしれない可能性を、“生身の人間による怪談”は示唆しているのである。

 こうした類いの怪談は、ぜひ身近でなく、遠いところで起きてもらって、話の種に見聞きするくらいがちょうどいいと、無責任であることは重々承知の上、思わされた次第である。