何もしなくても
不良債権額が増えていく
「悪夢」のような状態

 破綻に追い込まれた要因は一つではありませんが、最も大きかったのはバブル経済の崩壊です。
 拓銀は、1955年から全国規模でビジネスを展開する都市銀行として業務を展開していました。とはいえ、13行あった都銀のなかでは、業容や収益力はいつも最下位。
 道外や海外では知名度も低かったのです。

 地方銀行の横浜銀行にも業容で抜かれていましたが、都銀としてのプライドはなかなか捨てきれませんでした。

 日経平均株価が3万8915円87銭の過去最高値をつけた1989年、山内宏氏が拓銀頭取に就任。
 その翌年、「たくぎん21世紀ビジョン」という新構想を打ち立て、株式や不動産のバブルを取り込もうとしましたが、時すでに遅し。
 首都圏や関西圏のみならず、道内でもバブルは崩壊の過程に入り始めていたのです。

 このビジョンに盛り込まれたインキュベーター(新興企業育成)路線によって不動産やリゾート産業への融資に過度に傾斜し、のちに破綻の傷口を広げることになりました。
 私が山内氏から頭取をバトンタッチされたのは、1994年でした。
 バブル崩壊の影響が、多くの産業や金融界にも目に見えて出始めた頃です。
 株価が下がって株の含み益は吹っ飛び、貸し出しの担保である不動産の価格もどんどん下がっていました。

 何もしなくても、不良債権額がどんどん増えていく。
 まさに「悪夢」のような状態でした。
 マスコミ報道で「危ない銀行」と名指しされ、拓銀のイメージは急速に悪化しました。

 大量の預金が流出して資金繰りが厳しくなり、破綻の時期が早まることになったのです。
 破綻から1年たった1998年11月、拓銀の道内の営業は北洋銀行に、道外の営業は中央信託銀行(現・三井住友信託銀行)にそれぞれ譲渡されました。

 その4ヵ月後、私は北海道警察に商法の特別背任罪の疑いで逮捕されました。

【次回へ続く】