膨大なデータから、「私」を「ある嗜好をもった消費者」として“格付け”あるいはカテゴリーに分類し、広告を自動的に選定するのみならず、私たちの選択行動をさまざまに規制します。私たちはネットで「自由に」買い物を楽しんでいるようでいて、実際は企業が設定したフォーマットに沿って注文をしています。

 またソフトウェアをダウンロードするときなど、規約に「同意します」「同意しません」という“選択”画面が出ますが、「同意しません」という選択は基本的にありません。サービスが停止されるだけです。

 ネット・ニュースの類も、「嗜好」に合わせたものに自動化されていきます。いつのまにか「見たい情報だけ」「信じたい情報だけ」の環境になっていきます。この社会が本来多様なメンバーから成ることを忘れ、耳の痛い話はスルーして(なかったことにして) いくのは社会の分断をもたらすでしょう。

 いまや「環境」として、「情報インフラ」として、ネットが空気のような存在になりつつある現代社会において、プライバシーの変容についての課題文の読解を課すことには知的な意義がありますね。(中略)ネットの「ヘビーユーザー」を自負している人でも、それが自己およびこの社会にもたらしつつある事態に自覚的な人は多くはないかもしれません。

 2019年5月にグーグルはプライバシーの観点から、検索履歴について3ヵ月もしくは18ヵ月で自動的に削除できる仕組みを選べるようにすると発表しました。

 その9年も前、2010年度の入試で、東大は現代社会、情報化社会における「ポスト・プライバシー」、つまり新しいプライバシーの問題を受験生に問いかけていました(課題文は2009年に出版された『ポスト・プライバシー』〈著・阪本俊生〉)。

「個人を知るのに、必ずしもその人の内面を見る必要はない」、
「個人の内面の役割が縮小し始める」、
「プライバシーの拠点の移行」、
「自分自身を評価するのに、他人の主観が入り交じった内面への評価などよりも個人情報による評価の方が、より客観的で公平だという見方もありうる」

 といった筆者(阪本氏)の言葉を引きながら。

 そして、課題文につづく設問が“ヤバい”ほどよいのです。筆者が課題文の中に書いていることを正しく読み取れたつもりになっていたり、「情報化時代のプライバシー」についてわかったつもりになっていると必ず足元をすくわれるような問題を出してきます。