『2001年宇宙の旅』の猿人
ところが昔は、人類は狂暴な生物だと思われていた。牙がなくなったのは、牙の代わりに武器を使うようになったからだと、考えられていたのである。
二十世紀の半ばごろに、レイモンド・ダートという人類学者が、アウストラロピテクス・アフリカヌスという約280万~230万年前に生きていた人類の研究をしていた。ダートは、アウストラロピテクスの化石の近くで見つかったヒヒの頭骨に、凹みがあることを発見した。そして、この凹みは、アウストラロピテクスによってつけられたものだと考えた。動物の骨でヒヒを殴って殺したと、考えたのである。
さらに、アウストラロピテクスの頭骨にも傷が見つかり、アウストラロピテクス同士も武器を使って殺し合ったと主張した。このダートの研究がきっかけとなって、次のような説が社会に広まった。
「人類は、直立二足歩行を始め、両手が自由になった。その手で骨などの武器を使って、狩りや人類同士の殺し合いを始めた。つまり、直立二足歩行を始めた人類は肉食であり、手で武器を使うようになったので、牙がなくなったのである」。
有名な映画『2001年宇宙の旅』の冒頭に、宇宙から来た謎の物体によって、猿人の知性が目覚めるシーンがある。知性に目覚めた猿人は、動物の骨を使って、狩猟や仲間同士の殺し合いを始めるのだ。これは、この説に基づいたシナリオである。
しかし、この説にはいくつか問題がある。まず、ダートがこの説の直接の根拠とした、ヒヒやアウストラロピテクスの頭骨は、実は骨で殴られていなかった。ヒョウに襲われたり、洞窟が崩れたりしたために、頭骨に傷がついたことが、後の研究で明らかになったのである。
また、そもそもアウストラロピテクスは肉食でなかった。腸が長かったことなどから、植物食だったと考えられる。だから、狩りはしなかっただろう。
さらに、道具を使い始めた年代も合わない。骨を道具として使い始めた年代はわからないが、石器ならわかる。最古の石器は約330万年前のもので、犬歯が縮小した約700万年前とは年代が合わない。つまり、犬歯が小さくなった約700万年前に、武器などの道具を使った証拠は見つかっていないのである。
以上に述べたように、「人類というものは何百万年も前から狂暴な生物だったのだ」という説には根拠がない。やはり、牙がなくなったおもな原因は、人類同士(おもにオス同士)の争いが穏やかになったためと考えてよいだろう。
それでは、なぜ人類同士の争いが穏やかになったのだろうか。
仮説を検証するにはどうするか
チンパンジーの争いの中でもっとも多いのは、メスめぐるオス同士の争いである。したがって、争いを減らすためには、メスをめぐるオス同士の争いを減らすのが一番有効だ。
ということは、類人猿から分かれて人類が進化したときに、オスとメスの関係が変化したのではないだろうか。
現生の大型類人猿を調べると、オランウータンと多くのゴリラは一夫多妻、ゴリラの一部とチンパンジーとボノボは多夫多妻的な群れを作る。
一夫多妻や多夫多妻の社会では、メスをめぐるオス同士の争いをなくすことは難しい。実際、現生の大型類人猿ではオス同士の争いがしばしば起きるし、それを反映して犬歯も大きい。大型類人猿の中では比較的平和な生物であるボノボでさえ、人類よりはずっと犬歯が大きいのだ。
一方、一夫一妻的な社会では、メスをめぐるオス同士の争いは少ない。ということは、約700万年前の人類は、一夫一妻的な社会を作るようになったので、オス同士の争いが減り、犬歯が小さくなったのではないだろうか。別のいい方をすれば、類人猿の中で一夫一妻的な社会を作るようになったものが、人類になったのではないだろうか。