すべての原因は「お金の目的化」にある
資本主義と同じく、カネも「必要とされて」進展した。カネの生まれには諸説ある。思想家ジョン・ローや経済学者アダム・スミスの時代から言われてきた「物々交換からの派生」というセオリーは今でも根強く言われている。物々交換には「モノを腐敗・消耗させない管理」「取引の場へのモノの運搬」といったコストがかかる。交換に関わる人が皆「交換できるモノ」をその場に(偶然的に)持ち合わせている必要もある(モノがなければ物々交換ができない)。
そのコストなどを削減したのがカネだ。カネは腐らない。持ち運びもラクだ。仮に交換できるモノを持っていない人が取引の場にいても、カネがモノを代替するので交換ができる。カネの交換が始まった契機は定かでないが、始まって以降は上記利点によってカネが定着した。カネは交換をスムーズにする「手段」になった。
そんなカネがもつ重要な課題を、新井さんはこう喝破している(同書27ページ)。
ただの手段に過ぎなかったカネが目的になってしまう点がいけないと言うのだ。カネを得ること自体が欲望の対象になることがその最たる例である。現代人からすれば「カネへの欲望」は普通のことのように理解されがちだが、昔の人が同等にカネを欲望したとは専門分野ではあまり考えられていない。新井さんも「(交換に介在させると)便利だから。それなら、お金はあったほうがいいね、というくらいのものだった」(同書42ページ)との認識を述べている。
おそらく当初は、カネが代替できるモノは限定的だった。しかし時代が進み、カネの交換が地域を越えて広がる中で、カネが活躍する場も、対象となるモノやサービスも増えた。そうなるうちに、カネは「どんなモノとでも」「どんな時にでも」交換できる「一般性」をまとうようになる。正確にいえば、その一般性は一つの可能性に過ぎない。けれど、カネが通用するシーンが増えるにつれ「どこでも感」「いつでも感」は強まり、「もしかしたら次の場面ではカネが使えないかもしれない」という疑念は陰を潜め、カネの一般性が自明のことと目されるようになる。そうなれば「カネをたくさん持っている=交換力を豊富に持つ」という認識も生まれ、カネが人の豊かさ・パワー・権威の尺度・象徴としても機能する。
そこまで進化(?)したカネが人の欲望の対象にならない事態を、私は想像できない。目的になるのも「むべなるかな」と思う。
しかも、カネは「貯める」ことができる。物理的な制約でカネが貯められないということはあまりない。カネを貯めたいという欲望は、極言すれば無限に肥大化してしまう。食欲や睡眠欲には際限があって、「無限に食べられます/寝られます」という人はいないが、カネには際限がない。
資本主義が勧める競争は「欲望」に駆動されていて、食欲、性欲、睡眠欲から名誉欲、承認欲まで、あらゆる欲望がビジネスのためにたきつけられている。カネは、それらの欲望を満たすモノやサービスに交換できる。それなら、貯められるだけ貯めたいと人は思うだろうし、カネにまつわる「貯められる悲劇」が、カネの目的化に拍車をかけてしまう。