哲人 鋭い指摘です。それではなぜ複数の共同体を意識し、より大きな共同体を意識していくべきなのかを考えていきましょう。
くり返しになりますが、われわれはみな複数の共同体に所属しています。家庭に属し、学校に属し、企業に属し、地域社会に属し、国家に属し、といったように。ここまでは同意していただけますね?
青年 同意します。
哲人 では仮に、あなたが学生で「学校」という共同体を絶対視していたとします。つまり、学校こそがすべてであり、わたしは学校があるからこそ「わたし」なのだ、それ以外の「わたし」などありえない、と。
しかし当然、その共同体のなかでなんらかのトラブルに遭遇することはあるわけです。いじめであったり、友達ができなかったり、授業についていけなかったり、あるいはそもそも学校というシステムに馴染めなかったり。つまり、学校という共同体に対して「ここにいてもいいんだ」という所属感を持てない可能性は。
青年 ええ、ええ。大いにありえるでしょう。
哲人 このとき、学校こそがすべてだと思っていると、あなたはどこにも所属感を持てないことになります。そしてより小さな共同体、たとえば家庭のなかに逃げ込み、そこに引きこもったり、場合によっては家庭内暴力などに走る。そうすることによって、どうにか所属感を得ようとする。
しかし、ここで注目してほしいのは「もっと別の共同体があること」、特に「もっと大きな共同体があること」なのです。
青年 どういうことです?
哲人 学校の外には、もっと大きな世界が広がっています。そしてわれわれは誰しも、その世界の一員です。もしも学校に居場所がないのなら、学校の「外部」に別の居場所を見つければいい。転校するのもいいし、退学したってかまわない。退学届一枚で縁が切れる共同体など、しょせんその程度のつながりでしかありません。
ひとたび世界の大きさを知ってしまえば、自分が学校に感じていた苦しみが、「コップのなかの嵐」であったことがわかるでしょう。コップの外に出てしまえば、吹き荒れていた嵐もそよ風に変わります。
青年 引きこもったところで、コップの外にはいけない、と?
哲人 自分の部屋に閉じこもるのは、コップのなかにとどまったまま、小さなシェルターに避難しているようなものです。つかの間の雨宿りはできても、嵐が収まることはありません。
青年 いや、理屈としてはそうなのでしょう。しかし、外に飛び出すのはむずかしいですよ。退学するという決断でさえ、そう易々とできるものではありません。
哲人 ええ、たしかに簡単ではないでしょう。そこで覚えておいてほしい行動原則があります。われわれが対人関係のなかで困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまったとき、まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則です。
青年 より大きな共同体の声?
哲人 学校なら学校という共同体のコモンセンス(共通感覚)で物事を判断せず、より大きな共同体のコモンセンスに従うのです。
仮にあなたの学校で、教師が絶対的な権力者として振る舞っていたとしましょう。しかしそんな権力や権威は、学校という小さな共同体だけで通用するコモンセンスであって、それ以上のものではありません。「人間社会」という共同体で考えるなら、あなたも教師も対等の「人間」です。理不尽な要求を突きつけられたのなら、正面から異を唱えてかまわないのです。
青年 でも、目の前の教師に異を唱えるのは、相当にむずかしいでしょう。
哲人 いえ、これは「わたしとあなた」の関係でもいえることですが、もしもあなたが異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら、そんな関係など最初から結ぶ必要などない。こちらから捨ててしまってかまわない。関係が壊れることだけを怖れて生きるのは、他者のために生きる、不自由な生き方です。
青年 共同体感覚を持ちながらもなお、自由を選べと?
哲人 もちろんです。目の前の小さな共同体に固執することはありません。もっとほかの「わたしとあなた」、もっとほかの「みんな」、もっと大きな共同体は、かならず存在します。
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