戦争障害者の職業教育で
初登場した「生活保護」

「生活保護」という用語が新聞の見出しに初めて登場したのは、筆者が確認できたところでは、1932年(昭和7年)の読売新聞記事「戦傷兵の生活保護 病院内に援職学校 陸軍から月謝を支給」である。この職業学校は陸軍病院内に設置され、教員を務めたのは商業学校教員や白木屋デパートの番頭などであった。教員が「手に取るように親切に」、傷病兵にソロバン・簿記・養鶏・養蚕・養豚・小売店の経営といった「実際的知識」を教え、退院と同時に職業を営めるようにしたという。

 なお、月謝は軍から支給され、傷病兵たちは「喜んで」いたそうだ。職業軍人の場合、軍事救護法(1937年以後は軍事扶助法)の対象となっていた。軍事救護法には、驚くほど明確に「当然の権利」という性格が示されている。国のために闘って生命や健康を失ったのであるから、国が本人や遺族・家族の生活を支えるのは当然という、極めてわかりやすい理由だ。

 職業生活継続のための支援(現在の生活保護にもある「生業扶助」)は、軍事救護法にも含まれていた。生活と職業を支える制度に、さらに職業教育が追加されたことになる。当時としては、非常に手厚い配慮であったことは確かだろう。

 現在から見ると、非常に悩ましい。もともと不十分な生活支援と職業支援に、さらに職業支援を上積みしたから「手厚かった」と考えてよいのだろうか。「まず国のために生命や身体を差し出したから」という理由で認められる権利性は、「世の中に生産性を提供できない障害者は殺していい」という、相模原障害者殺傷事件の植松聖被告の主張と表裏一体でもある。

 さらに戦前戦後を通じた精神疾患への対応という問題もある。戦争で身体に傷病を負った元兵士の「その後」には、漫画家の故・水木しげる氏のような成功例があるものの、精神障害を負った元兵士たちの多くは、精神科病院の中で忘れ去られたまま世を去った。