「目に映る世界の模倣」だけが「再現」ではない

これについて考えるために、ポリネシア人がつくった《オロ》と、ルネサンス期の巨匠ミケランジェロの《ピエタ》とを比べてみましょう。《ピエタ》は磔刑に処されたイエス・キリストと、彼を腕に抱く聖母マリアを題材にした彫刻作品です。

ミケランジェロもポリネシア人も、自分たちが信じる神さま(「イエス」と「オロ」)の姿を「再現」したという点では共通しています。
しかし、それらの表現方法は、正反対といえるほどに異なっています。

この違いは、技術の有無だけに要因があるとはいいきれません。むしろ、「再現」にまつわる「考え方の違い」こそが、この差を生み出していると私は考えています。

「再現」とは、「再現されたもの」を見た人に対して、「本物」を見たときと近い反応を引き起こすことだといわれます。その反応が「本物」を見たときとほぼ同じであれば、それは非常に忠実に再現されたものだというわけです。

ミケランジェロは、イエスと聖母マリアの姿かたちを細部までとことんつくり込むことで「再現」を試みたようです。この作品は、着彩こそないものの、大きさもほぼ等身大であり、信仰のある人が見たら、本物のイエスを前にしたときに近い感覚を覚えることでしょう。

では他方、ポリネシア人たちの《オロ》はどうでしょう? 果たして「神さまを再現できている」といえるでしょうか?

そのヒントとして考えてみたいのが、ディズニー映画『トイ・ストーリー4』に出てくる「フォーキー」というキャラクターです。同シリーズをご覧になった人はご存知でしょうが、この映画で中心的な役割を担ってきたのは、かなり精巧につくられたカウボーイ人形の「ウッディ」でした。

しかし、『4』で新キャラクターとして登場した「フォーキー」は、それまでに出てきたどのオモチャとも大きく異なっていました。「フォーキー」は、主人公の女の子が幼稚園に体験入学した日に、ゴミ箱にあったプラスチックの使い捨て先割れスプーンに、即席の材料でいびつな目・口・手・足をつけただけのもので、おもちゃとも人形とも呼べないような代物なのです。

しかし、幼稚園での新生活に馴染めずにいた彼女にとって、「フォーキー」は大きな心の支えとなります。
ゴミ箱に捨てられていたただの先割れスプーンが、生命感と人格を持った存在へと変化していくのです。その際、「フォーキー」の造作が精密かどうかは、彼女にとってはあまり関係がないようでした。

さて、ポリネシア人たちが制作した《オロ》は、その主人公の女の子にとっての「フォーキー」のような存在だったのではないかと私は考えます。つまり、ココナッツ繊維で覆われた木片に、最小限のパーツである目と腕をつけたとき、彼らはそこに十分すぎるほど神さまの存在を感じ取れたのではないかということです。

もしそうだったとすれば、彼らがそれ以上に手を加えて、姿かたちをつくり込む理由はなくなります。その段階で「神さまを再現する」という目的は果たされているからです。

大切な神さまである「オロ」をこのように表現したのは、ポリネシア人の技術が未熟だったからでも、制作の詰めが甘かったからでもありません。彼らは、この作品が神さま「オロ」を十分に「再現」していることに満足感を覚えていたからこそ、あえてここで制作の手を止めたのだと私は思います。