科学的装いを凝らした「非現実的な学問」?

中野 そうそう、セイの貨幣観はおかしいんです。結局のところ、「セイの法則」は「物々交換幻想」に導かれた仮説にすぎないということです。

 ところが、生産物が常に生産物に交換され、供給が常にその需要を生み出すという「セイの法則」が成立するのであれば、需要と供給は常に均衡するので、過剰生産やそれによる不況や失業といった事態は、たしかに生じなくなります。そして、そこから、「自由市場に委ねれば需給は常に均衡する」という市場原理が導き出されるわけです。

――それが「ドグマ」になったわけですね?

中野 ええ。この「セイの法則」は、リカードやジョン・ステュアート・ミルといった古典派、そしてジェヴォンズ、メンガー、ワルラスといった新古典派にも継承されました。

 しかも、リカードやミルは、「セイの法則」を論敵による攻撃から守ろうと奮闘しましたが、新古典派はそれすらしなくなったとディラードは言っています。つまり、新古典派にとって、「セイの法則」は疑うべくもない「ドグマ」と化していたんです。

――なるほど。

中野 なかでも重要なのが、ワルラスです。彼は、「セイの法則」が成り立つことを前提として、経済全体の市場の需給が均衡することを数理的に体系づけた「一般均衡理論」を確立することで、新古典派経済学を主流派の地位へと押し上げた人物です。そして、主流派経済学は、今日もなお、ワルラスが確立した「一般均衡理論」から出発して、分析を精緻化させたり、拡張させたりしているんです。

 1980年代以降、主流派経済学の世界では、この「一般均衡理論」を基礎としたマクロ経済理論を構築しようとする試みが流行しました。経済全体を扱うマクロ経済学も、「一般均衡理論」で全部説明してしまおうというのです。

 この試みは、「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」と呼ばれています。これは、簡単に言えば、経済全体(マクロ)に生じるあらゆる現象を個人(ミクロ)の合理的行動から説明するという考え方です。世の中に起こることはすべて個人の合理的選択の結果だという想定になります。

――本当ですか? 僕自身、合理的選択ができているとは思えないですが……。

中野 でも、そう想定しているのです。それで、この「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」の挑戦から、RBCモデル(実物的景気循環モデル)、さらにはDSGEモデル(動学的確率的一般均衡モデル)という理論モデルが開発され、1990年代以降のマクロ経済学界を席巻することになりました。

 DSGEモデルは、小難しい数学を駆使した理論モデルで、いかにも科学的な装いをしています。しかし、問題なのは、この理論モデルの基礎にあるのが「一般均衡理論」だということです。

――「一般均衡理論」が、仮説にすぎない「セイの法則」を前提にしたものだから問題だと?

中野 そうです。ワルラスは、一般均衡理論を構築するにあたって、消費者と生産者の取引の量やタイミングはすべて正確に知られているという仮定を導入していました。取引における一切の「不確実性」がないものとしたんです。別の言い方をすれば、市場の一般均衡が実現するのは、デフォルトという事態が起き得ない世界においてなのだということです。

――だとすれば、あまりに仮想的な話ですね……。