主流派経済学の理論には「貨幣」が存在しない?
中野 ええ。しかし、私たちが日々行っているビジネス上の取引は、同時的に行われる物々交換とは異なり、現在と将来という異時点間で行われるのが普通です。例えば、製造業であれば、まず、製造機や原材料を手に入れ、社員を雇い入れる必要がありますが、完成した製品が実際に売れるのはずっと後のことです。そこには、「時間」が存在しているわけです。
そして、現時点においてモノやサービスを受け取る人や企業には「負債」が発生しますが、将来は本質的に不確実ですから、「負債」には常にデフォルトの可能性があります。この不確実性を克服しなければ、経済活動が活発化することはありません。
だからこそ、デフォルトの可能性がほとんどないものとして、すべての経済主体が信頼して受け入れる「特殊な負債」=「貨幣」が不可避的に求められるわけです。貨幣とは、イングランド銀行の季刊誌が強調するように、「信頼の欠如という問題を解決する社会制度」にほかならないんです。
ところが、一般均衡理論が前提するように、売買において不確実性がなく、デフォルトの可能性がないのであれば、「信頼の欠如」という問題を克服する必要もなくなります。貨幣という社会制度そのものが不必要になるわけです。
――なるほど。
中野 それに、先ほど、あなたが言ったように、人々は、将来に何が起こるか分からないという「不確実性」に備えて貨幣を貯蓄するのですが、もし将来の「不確実性」がないのならば、貨幣を貯蓄しなければならない理由もなくなります。貨幣の機能の一つに価値貯蔵手段があることは、どの経済学の教科書にも書いてあることですが、「不確実性」を想定しない主流派経済学の一般均衡理論では、貨幣がなぜ価値貯蔵手段になるのかが説明できないんです。
――そうなんですね……。
中野 というか、主流派経済学は、分析手法を数学化することで、数学的分析こそが厳密な科学であるという通俗的な科学観に強く訴えかけたことによって、社会科学の中でも特に大きな影響力をもつようになったわけですが、この「数学化」こそが問題の本質とも言えるんです。
なぜなら、“いつ何が起こるかわからない”という「不確実性」を織り込もとうすると、数学的理論を構築することができないからです。発生可能性を確率論的に示すことができる「リスク」を計算式に導入することはできますが、確率論的に示すことができない「不確実性」を計算式に導入することは不可能です。だから、彼らは「不確実性」を排除するほかなかったわけです。
しかし、「不確実性」を排除するということは、貨幣の存在意義を排除することです。ワルラスが一般均衡理論において「不確実性」を消去したとき、そこから貨幣も蒸発したんです。これは、ワルラス系の一般均衡理論に関する中心的な理論家のひとりで、2013年に亡くなった経済学者であるフランク・H・ハーンですら、認めていることなんです。
――「数学への偏執狂ぶりは、科学っぽく見せるにはお手軽な方法だが、それをいいことに、私たちの住む世界が投げかけるはるかに複雑な問題には答えずにすませているのだ。」というピケティの言葉を思い出します。