対照的なのは、代表的な民主主義国家のアメリカである。個人の選択の自由を重視するあまり国民皆保険のような医療保険制度さえ持っていないアメリカは、今回のコロナ感染では「その弱さ」を露呈した。

 一方、日本においては、非常に民主的な法律体系のために、緊急事態であっても個人の私権を過剰におかすことが少ないようになっている。

 しかし一方では、今回の政府の緊急事態宣言のような「自粛」という法律に基づかない要請であっても、欧米などに比べれば、比較的に「従順な国民性である」という指摘もある。

 日本のコロナウイルス対策において、「クラスター分析」という世界でも特殊な方法を取ってきたことが指摘されている。

 私は感染症の専門医ではないので、この方法の是非を議論するつもりはない。

 しかし、韓国などのように、「とにかく検査を多くし、患者を見つけて封じ込める」という方向とはまた違う切り口であり、このクラスター分析という方法を選んだ理由に、やはり「日本の文化的背景」があると思われる。

 そのは良い悪いは抜きにして、やはり全てを透明化しない「暗黙的な文化」と言えるであろう。その意味で日本の民主主義は少し特異なのかもしれない。

個人に対する「究極の管理」が
技術的には可能になっている

 逆に、健康や医療の世界で、全てをオープンにするということはどういったことであろうか。

 2つ例をあげてみたい。

 例えば、1つは、こんなことであろう。

 もし、近い将来、新型コロナウイルスの抗体検査の手法が開発され、実施された場合、新型コロナウイルスに感染したかどうか、あるいは、その人が抗体を持っているかどうかが分かる。

 そこで、すべての国民に抗体検査を受けること、さらには、全国民に抗体ができるまでワクチンの接種を義務づける。そして抗体がない人は、ウェアラブル端末などを使い、日常生活を徹底的に管理していく…。