判決文では、主旨として「せん妄による幻覚は経験者が記憶していなことが多いが、女性の証言は記憶の欠損がなく、女性にせん妄による幻覚があったとは説明できない」と判断された。また、せん妄による幻覚を見ていた場合、「主治医がベッド脇に来たときは覚醒していたが、その後、せん妄による幻覚を見て、医師が退出するとき再び覚醒したことになる。短時間の間に覚醒と幻覚が交互に出ることは考え難い」ともした。

 このため、男性外科医が病室を出入りした時刻は「女性がせん妄だったことはないか、それに伴う幻覚はなかったと認められる」と判断した。

 だが、筆者の別の精神科医への取材によると、医学的診断基準では「せん妄は短時間のうちに意識が変動することが本質になるため、意識混濁の浅い時間と深い時間が目まぐるしく変わる、その全体がせん妄です。通常24時間単位の全体像からせん妄の型を判断するため、短時間内の部分を捉えて、この瞬間は過活動型、次の瞬間は混合型、最後のほうは低活動型などという説明にはなりません」と指摘する。「低活動型のせん妄でも幻覚を見ることはあります」とも言う。

 判決で検察側証人の証言を全面的に取り入れたことについて、立命館大学法学部で犯罪学等を専門とする森久智江教授は「裁判官は医師ではないため、裁判所は医学鑑定を依頼します。しかし、医学的な観点から見ると妥当でない内容が法律的な観点で判決文に出てくることがあります。それは、医学鑑定を検討しても『最終的には法律的観点から裁判官が判断する』と裁判所は考えているからです」と説明する。

 つまり、女性にせん妄・幻覚があったかどうかの判断について、弁護側のせん妄研究の第一人者の医師らの証言より、検察側証人の司法精神医学による説明のほうが裁判官にとっては理解しやすかったといえる。

 さらに、前述の森久教授は「日本の裁判所の科学的証拠との向き合い方については、これまでも議論が重ねられてきましたが、いっそう再検討する必要性があります」と厳しく指摘する。また、本来、検察が控訴することは被告人に対する「二重の危険の禁止(憲法39条違反、刑事裁判で適法、あるいは無罪が確定した判決の場合、同一事件については、再び訴追されないことを保障する憲法上の権利)」という憲法の規定に反するとの批判があること、控訴審で議論されなかった内容を判決の補強として判決文に入れることにも森久教授は疑義を呈する。

 控訴審で議論されなかったことは、カルテのことだけではない。一審で科学的証拠として何度も議論された、男性外科医の唾液に関する「アミラーゼ鑑定(警察が乳房を拭き取ったときの付着物は唾液や汗に含まれるアミラーゼという消化酵素だったか)」「DNA型鑑定(付着物は男性外科医からの物か)」「DNA量鑑定(DNAの量はどのくらいか、会話の飛沫かなめた唾液か)」については、女性の証言を補強する証拠と位置づけられた(これらの科学的証拠に関する詳細は前述の記事、p2~p4:犯罪の有力な証拠は指紋と精液・血液のDNA型判定

 一審で被告人弁護士からも判決文でもデータや証拠物を廃棄した点を厳しく指摘された、科学捜査研究所における証拠作成に関する杜撰(ずさん)な手続きに関しては、本判決で「鑑定の証明力が減じることはない」と不問になった(証拠作成に関する杜撰な手続きについては、記事『手術後に胸なめた罪に問われた医師に無罪判決、問われた鑑定試料の保存』参照)。

 この科学的鑑定に関する東京高裁の判断について、高野隆弁護士は「本判決で科捜研のデータや証拠廃棄について、今後は科捜研が発言する結果だけで有罪が決まるという前例を作った。これは非常に恐ろしいことです」と憤りを見せた。被告人の弁護団は、即日、上告したという。

東京保険医協会の記者会見東京保険医協会の記者会見、写真右が須田昭夫会長、中央が佐藤一樹理事 Photo by M.F

 また、弁護団に続いて記者会見をした東京保険医協会の須田昭夫会長と佐藤一樹理事(いつき会ハートクリニック)は「医療裁判では、しばしば、医師の常識に反する判決が下されてきた。裁判官はあまりにも医療医学に無知で、科学を理解していない」「日本医師会、日本医学会も、この裁判の経過を把握し、医学が曲げられたという事実を注視していただきたい」と話している。