大切なのは「問い続けること」

 「怒らない人がいい人」というイメージが世間には定着しています。怒りっぽい自分の性格を直したい、と悩んでいる人も多いかもしれません。しかし、「怒りっぽい人」は「よく問う人」なのです。神に対して怒る人は「よく祈る人」なのです。

 もちろん、むやみやたらに怒ったり、八つ当たりのように怒ったり、そういうことは良くありません。また最初に書いたように、感情のコントロールを失った状態になることも良くありません。

 そういう状態を防ぐため、感情のコントロールを保つには先ほどの「怒りはすなわち問いである」という視点が非常に有用です。怒りが生じたときに、「自分は今、何を問おうとしているのか」と考えてみてください。そうすれば怒りに伴う激情に振り回されることなく、自分の言動をコントロールすることができます。

 「問い」である以上、目的は「答え」であるはずです。答えを求めるために、ときには強い言葉や行動も必要かもしれませんが、あくまでも目的は答えであって、相手への攻撃ではありません。

答えてくれる人がいない「問い」はどうすればいい?

 ここまで「怒りはすなわち問いである」という視点についてお話ししてきました。

 でも、この世には答えてくれる人がいない問いもあります。答えが欲しいのに、その答えを持っている存在がいない、誰が答えを持っているのか分からない、または答えを持っている人が答えてくれない……。

 そのように「答えの与えられなかった問い」「行き場のなくなった問い」は、「やり場のない怒り」「行き場をなくした怒り」へと姿を変えます。「答え」が与えられない問いは暴走し、相手への「攻撃」に目的を求めてしまうのです。

 これが、怒りの一種である「報復」の正体です。報復の連鎖とは、互いに答えを与えず、ゆえに互いに問うことをやめ、怒りの本質である「問い」を失ってしまった状態だと言えます。しかしそれでもまだ、怒りは答えを求めているのです。

 これは明らかに不健全な怒りであり、「七つの大罪」の「憤怒」にあたります。

 しかし、こうした感情に支配されてしまったときでも、「自分の目的は何かへの攻撃ではなく、あくまで答えなのだ」ということを知っていれば、感情をコントロールしやすくなるはずです。

神様は、いつでも問いをぶつけられる相手

 不幸を目の前にして「どうして」と問うこと、これは人間として自然なことではないでしょうか。ときに答えは与えられないかもしれません。余命告知をされてしまった患者はまず医者に問うでしょう。しかし医者もすべての問いに答えられるわけではありません。そこでその問いは行き場をなくしてしまいます。

 しかしそれでも問い続けること、それが怒りを暴走させないために必要なのです。医者に問うことには限界がありますが、神様にはとことんまで、いつまでも問い続けることができます。「ひたすら問い続けられる相手がいる」というのが、クリスチャンの特権の一つでもあります。

 だから、ときには怒っていいんです。そこに「問い」がある限り。

(本原稿は『上馬キリスト教会ツイッター部の キリスト教って、何なんだ? 本格的すぎる入門書には尻込みしてしまう人のための超入門書』(MARO著)の抜粋です。本書では、キリスト教の基本知識のほか、キリスト教的ライフハックのすすめも紹介しています。)