とはいえ、「和」の精神を重んじ「衆と論ふ」という文言は、まさに日本人の特性を指摘しているようで、だからこそ、こうした勘違いも起こるのだろう。強い自己主張をせず、協調的に物事を進めていく日本人―それは歴代の政治を見ても、明らかである。昔から日本の為政者たちは、衆議を重んじつつ政治を運営するのが常態だったのである。
奈良時代前後に成立した大宝律令や養老律令によって、朝廷の政治制度はしっかりと定まった。中央の政治組織を太政官といい、太政大臣、左大臣、右大臣、大納言といった構成員の公卿たちが、合議によって政策を決め、決定事項は天皇の裁可を得て、天皇の命令(意志)として詔や勅という文書形式で発布された。公卿の決めたことに天皇が異を唱えることはなかった。衆議を重んじたのである。
「摂政や関白が独裁していた」という誤解
合議という政治手法は、平安時代に藤原氏(北家)が権力を握った摂関政治も同様だった。すべてを摂政や関白が独裁していたという印象が強いが、それはまったく正しくない。摂政・関白(外戚)は、官人(官僚)の任免権を有したので力があったのであり、専政を行なったわけではない。おもな政策は太政官の公卿会議で審議されて決まった。
とくに重要問題に関しては、陣定(じんのさだめ)(内裏の左近衛府の陣が置かれた陣という場所で開催される公卿会議)が開かれ、各公卿たちの意見が求められた。最終的に天皇や摂関が決断を下したが、だいたいにおいて多数派の意見が尊重された。
では、初めての武家政権である鎌倉幕府はどうだったのだろうか。こちらも二代将軍源頼家以降は、将軍は幕府のお飾り的存在になり、実質的には執権北条氏がリーダーシップを取りつつも、有力御家人から構成される評定衆の合議というかたちで政治が運営された。
とくに三代執権北条泰時は、御成敗式目に基づき、評定衆の意見を尊重した衆議政治を進めた。これを執権政治と呼ぶ。しかしやがて北条氏が独裁色を強めていく。そうなると御家人たちの気持ちが離れ、鎌倉幕府は瓦解していくことになったのである。