日本、そして世界に
今、現実に起こっている変化

:特に中世なんかは、やっぱり恐れというものがあったと思う。地獄極楽とかいう絵図があったりして。だから、何か自分を超えた大きな力というもの、それを象徴しているのが教祖であったりして。それに対する絶対的な追随という感じだよね。

阿部:「そこに来るしか、あなたの成長の道はありませんよ」「私の道が一番優れた道ですよ」といったようにして成り立ってきたものが多いよね。

:もちろんそこには、ある意味で健全な霊性とか精神性はあったろうと思うんだけど、どこか人を恐怖に貶めるというような構図もあったと思う。

阿部:もちろん、そこには真の宗教性みたいなものも脈々と流れているんだけども、そのシステムの中に、そういう恐れを植え付けてしまったり、今のままじゃダメだっていう否定が前提になってきたりして、それがずっと長いこと、それこそ有史以来ずっと続いてきた気がする。
今、この時代になって、本当の意味での宗教性みたいなものは、宗教という専売特許じゃなく、われわれの一般の生活の中に見出すっていう流れに変わりつつあるような気がする。

:そう。本来はそうだよね。
だって、空気は、どこの本山、どこの経典だけにあるわけじゃない。
どこでもどこの巷にも、どこにでも流れているものが空気。

阿部:空気っていうのは、いわゆる真理ですよね。

:真理を空気とすれば、誰も彼も吸っているもの。
だから、その特定の人が特定のある権威の中で、初めて吸えるものじゃない。それを、ある意味で専売特許のように言ってきたところもあると思う。
だから、そういう意味で中世というのは、いわゆる外側に権威を認めて、それに帰依する、あがめて追随していくという構図だった。
それは、健全な部分もあったけれども、えてして、そういう恐れとかを植え付けて、人を盲従させるというか、そういう自分自身の判断をおいて、それにただついていく、そういう構図であることも大いにあったと思う。
これを、西田幾多郎という禅の哲学者は、外側に権威や超越的なものを認めてそれに帰依する、という一つの信仰の霊性の形として外在的超越と言った。
西田哲学でははっきり言っているんだけれど、外に超越、絶対的なものがあるからそれに帰依するということは中世的、でも、これからの時代は内在的超越の時代だと。
内在的超越というのは、一人ひとりの心のまさにその奥に、永遠的な、超越なる神と呼ぶか仏と呼ぶか、そういうものがある、それは自分自身の本質としてある、それをみなさん自覚しましょう、という霊性のありようだね。

阿部:その彼の生きた時代から、もう何十年も経ちましたが、その頃にそれを言ってる人がいたわけだけれども、言ってみれば、彼の予見が今、現実のものとして起きてきているよね。

:そう。それがね、本当に如実に現実に現れつつあると思う。
だから、かつては選ばれたブッダなりダルマなり、いわゆる祖師といった人が、悟れる者としてあり、それに民衆がついていく、帰依するという構図だった。それは外在的超越の構図。
でも、今、たとえばドイツとかアメリカ等々で、一般大衆が坐禅をしているというのは、自分自身の中に、そういう神なるもの仏なるものと呼ぶ霊性的なものを瞑想なり坐禅を通じて体験しようという、大きなうねりが実に今、起こりつつあると思う。

阿部日本においても、そういう気づきをふっと得る人がどんどん増えているんですよ。
 


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