定年がないということは、定年までの雇用義務がないということだから、企業は、客観的に見える別の基準をつくる必要があるが、コストに合わない社員をいつでも解雇できる。筆者は、国の制度として、補償条件を明確化した上で解雇を原則自由とすることに賛成だが、企業にとっては、より合理的な経営を行ない易くなる点で有益だろう。

 一方、雇われる側では、働く意志と力(体力も、スキルも)がある高齢者にとっては、「定年で雇用打ち切り」という、ある意味で理不尽な制約がなくなるのだから、好都合だ。

 こう考えると良いことずくめのようだが、解雇が下手な経営者の場合、「定年廃止」は、高齢社員の滞留と人件費の高騰を招きかねない。当然のことながら、定年廃止は、解雇規制の緩和と共に実施しなければならないということだ。また、組合が強い会社の場合、定年廃止は経営的に危険だろう。

「年齢」は平等か、不平等か?
フェアな扱いは状況によりけり

 それにしても、これまで、年齢によって人の扱い方を変えることや、他人の年齢を問うことが、「差別」や「失礼」としてあまり問題になって来なかったのは、なぜだろうか。

 1つには、能力や貧富を問わず、誰でも1個だけ年齢を持っており、1年経つと共通に1つ歳を取るという点で、「年齢は誰にとっても平等だ」という先入観があるからだろう。

 そして、この先入観の中には、年齢が同じなら人は同じように扱われるようであってほしい、あるいはそうあるべきだという、年齢に関する平等願望ないし平等主義があるように思う。

 この願望ないし主義の背景には、飛び級が原則としてなくて、落第もめったにない学校制度によって、日本人が年齢だけで差を付けられることに慣れていることがあるだろう。