「上昇志向」が強い人は危なっかしい
まず、「抜擢」されるということは、周囲の人々のなかで「抜きん出る」ということですから、「抜擢」されることをめざす人は、どうしたって「自己顕示」せざるをえません。
ところが、それは、周囲の人々の「共感」や「協力」を集めるうえでは、邪魔にしかならない。ときには、「あいつは、自分が出世するために、俺たちを利用しようとしている」「自分より“上”と思えば追い落とすことだけ考えている」などと取られかねないわけです。
あるいは、「抜擢」するのは人事権を握っている上司ですから、その上司に対して過剰な忖度をしてしまうおそれもあります。
本来、参謀は、上司に対して率直な指摘をすることによって、上司が「裸の王様」になるのを防ぐ機能を果たさなければならないわけですから、これでは本末転倒。上司におもねって「抜擢」を狙うような人物は、周囲の人々から軽侮を受ける結果を招くだけです。
そもそも、「抜擢」されるために、会社や上司の要求に過剰に適応しようと、無理を重ねるような生き方をしていると、非常に疲れるはずです。会社人生は長いのですから、無理は続きません。どこかでしんどくなってくるものなのです。
しかも、「上昇志向」を剥き出しにしている人物を、周囲の人々は内心では冷ややかに見ているものです。下手をすると、「一緒に働きたい」という仲間が全くいなくなる。そのような代償を払いながら多少出世したところで、なんとも“虚しい人生”と言わざるを得ないでしょう。
それに、「上昇志向」が挫折したときには、自分の頑張りを支えてきた「根源的な動機」が失われるわけですから、場合によっては、心までもが折れてしまうことだってありえます。だから、私は、「上昇志向」を原動力に努力する人々を、むしろ「危なっかしいなぁ……」と心配しながら見ていたものです。
仕事の「面白さ」は、
絵を描く「面白さ」と同じである
このように考えるのは、私の個人的な価値観によるのかもしれません。
私は“ボタンのかけ違い”でブリヂストンという会社に入ったようなものでした。もともと引っ込み思案で、人付き合いも得意ではない性格。大学では美術部に所属して、黙々と油絵を描くのが好きなおとなしい学生でした。
本当は、何か芸術にかかわる、個性のある仕事をして生きていく夢がありましたが、現実は厳しく、生きていくには普通に就職するしかありませんでした。そこで、目にとまったのがブリヂストンでした。「ブリヂストン美術館」(現アーティゾン美術館)があるような会社だから、きっと”文化的な会社”に違いないと思ったわけです。
ところが、運よく入社できたまではよかったのですが、実際に働いてみると、思い描いていた会社とは大違い。野武士のような雰囲気の先輩が闊歩する社内で、痩せてひょろひょろだった私はいかにも場違いな存在。タイヤに対する関心もありませんでしたし、それ以前に、ビジネスや金儲けそのものにすら本質的に興味がなかったので、「ここで、やっていけるのだろうか」と心細い思いをしたものです。
しかも、入社2年目でタイに赴任したときには、現地スタッフとの関係構築などにずいぶんと苦労もして、あのときは、会社を辞めて、日本に逃げ帰りたいとまで思い詰めたものです。だけど、帰国して転職先を探そうにも、当時は航空運賃がものすごく高く、そのままタイでなんとか頑張って働くしかない。それが、私の会社人生の出発点だったのです。
しかし、上司に命じられた仕事をやるだけでは、どうにもつまらない。
だから、私は、「こんなことができたらいいな」という思いを実現することに面白さを見出しました。それまでになかったアイデアを実現することで、会社に貢献することに「やりがい」を見出すようになったのです。
いま思えば、これは、学生時代に絵を描いていたときの動機と「根っこ」は同じです。絵を描くというのは、「完成形=ビジョン」を思い描いて、それを具現化すること。そして、それまでになかった「作品」をつくり上げることに、えも言われない喜びが存在します。私は、それと同じ喜びを、会社のなかで「新しい価値」をつくりだすことに見出したわけです。
しかも、絵を描くときは自分ひとりで完結できますが、会社で「作品」をつくり上げるには、周囲の人々と力を合わせる必要があります。
人付き合いが苦手な私にとっては、それに苦労が伴う側面もありましたが、それ以上に、みんなで「新しい価値」をつくり出した暁には、「同志」とも言いうる関係性が生まれるという、大きな喜びがあることも学びました。そして、この「喜び」こそが、私が、ブリヂストンで仕事をする原動力となっていったのです。