仏教徒の自覚があってもいい

橋爪 さて、日本にはユニタリアンがいない。ルター派の教会が自宅の近くにあったので、今はそこに通っているんです。自分個人としてはユニタリアンもいいなと思うけど、みんながユニタリアンになると、世の中はグジャグジャになっちゃうから、ルター派の教会では、ルター派がしっかりしないといけませんよね、という態度で過ごしています。

──ユニタリアンを選んだのは、何年前のことなんですか?

橋爪 十何年前ぐらいです。

 ムスリムの中田考先生とも2冊ぐらい対談本を出しているんですが、中田先生は、東京大学の文学部のイスラム学科を出てムスリムを研究しているうちに、ムスリムになっちゃったんですね。信仰をしながらムスリムを研究しないと、研究にならないということに気がついた。そういうタイプの人って、日本ではまだ少ないんだけど、世界ではこれが主流なんです。

 だからといって、クリスチャンになれとは言わないですよ。でも、みんな、もうちょっと仏教徒らしくしてもいいのにと思う。

──そうですね、日本人は、仏教徒の自覚があまりないですものね。

橋爪 仏教って多様だからね。キリスト教も、さっき、福音派とユニタリアンでは全然違うけど、仏教はもっと多様です。浄土宗、浄土真宗もあるし、禅宗もあるし。でも、せっかくあるんだから、もうちょっと考えてほしいなぁと思うけどね。

「信じる」と「考える」の違いとは

──宗教について「信じる」と「考える」の違いはなんでしょう?

橋爪 信じるというのは、いったん考えることをやめるということです。たとえば旦那さんと奥さんがいて、奥さんが旦那さんの浮気を疑っているとしましょう。なんとなく帰りが遅くて、「これは怪しい!」とか思ったとする。でも、決定的な証拠がない。よく考えると、それなりにちゃんとしている面もある。さあ、どうしよう。

 これ、考えて、結論が出ますか? 出ませんよね。そこで結論を出そうと思えば、「どうなっているのよ」と、問い詰めるしかないが、濡れ衣だったら相手に悪い。

 さて、「死ねばどうなるか?」というのは、考えても、そんな証拠はどこにもない。でも、根拠がないからといって、「死」について考えないわけにはいかないでしょう。そこで、仮に「こうだ」と考えて、生きていくって決めたのなら、それは信じるということだ。考えるのをやめるわけではない。でも、いったんストップする。

 それじゃまずいと思ったら、もっといい考えに乗り換えればいいわけであって、何にもないよりはずっとマシだ。

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 新刊『死の講義』のなかで、橋爪先生はこのように語っています。

 宗教の、どれかひとつを選んで、死んだらどうなるか、考えてみる。ちょっとやってみる、をお勧めする。それは、運命の出会いかもしれない。

 とのべておきながら、反対のことを言おう。どの宗教を選んでも、結局は同じことですよ、と。

 なぜか。それはどの宗教も、いまの時代を真面目に生き、でも相対主義に苦しむふつうの人びとの、プラスになるに決まっているから。科学と常識だけでは満足できなかった、ぽっかり空いたあの偶然の空白を埋めて、自分なりの確信をもって他者と共に歩むことができるから。

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