iPhoneから「気を散らすもの」を削除する
このころ、僕は生産性と効率性の達人を自負していた。勤務時間をそこそこに抑え、毎晩夕食に間に合う時間に帰宅した。理想的なワークライフバランスだと思っていた。
でももしそうなら、なぜ8歳の息子にうわのそらだと見抜かれたんだろう? 仕事をコントロールできていたはずなのに、なぜいつも気ぜわしく、気が散っていたのか? 朝200通あった未処理メールを深夜までにゼロにしたからといって、充実した1日だったと本当にいえるのか?
そして僕は、はたと気づいた。生産性を高めたからといって、いちばん大事な仕事をしていることにはならない。たんに他人の優先事項にすばやく対応しているだけなのだと。
僕はネットをいつも気にしていたせいで、子どもに正面から向き合っていなかった。本を書くという「いつかやりたい」大きな目標も、ずっとあとまわしにしていた。実際、1ページもタイプしないまま数年がすぎていた。誰かのメールや誰かの更新情報、誰かのランチ画像の海で立ち泳ぎするので精一杯だった。
僕は自分にがっかりしただけでなく、猛烈に腹が立った。怒りにまかせてスマホからツイッター、フェイスブック、インスタグラムのアプリを削除した。ホーム画面から1つアイコンが消えるたび、心の重しが取り除かれるような気がした。
それからGmailのアプリを見て歯ぎしりした。当時僕はグーグルにいて、Gmailのチームで何年も開発に取り組んでいたのだ。僕はGmailを愛していた。それでも心を鬼にした。そのとき画面に表示されたメッセージを、いまも覚えている。信じられないとでもいうかのように、本気でアプリを削除するつもりなのかと聞いてきたのだ。僕はゴクリと唾を飲み込み、「削除」をタップした。
アプリがなくなったら不安や孤独を感じるのではないかと思っていた。その後の何日かで、たしかに心に変化があった。といっても、ストレスを感じたんじゃない。むしろホッとして、解放感を覚えていた。
ほんの少しでも退屈するとiPhoneに反射的に手を伸ばすクセがなくなった。子どもたちとの時間は、いい意味でゆっくりすぎていった。
「なんてこったい」と僕は思った。「iPhoneですら毎日を豊かにする役に立っていなかったのなら、ほかはどうなんだ?」
僕はiPhoneと、iPhoneがくれる未来的な能力を愛していた。でもその能力とセットでやってきたデフォルトをそっくりそのまま受け入れたせいで、僕はポケットのなかのピカピカのデバイスにいつも縛られていたのだ。