トラウマとなった痛恨の「失敗」
今でも、時々、夢にまで見るプレイがあります。
僕が4年生の時の試合でした。その試合の大事な局面で、一瞬、僕のなかに迷いが生じて、コーチから指示のあった「プレイコール」とは異なるプレイをしてしまったことがあるのです。
本当は、その局面で、僕はボールをパスしなければならなかったのですが、もともとパスに苦手意識のあった僕は、失敗を恐れてほとんど反射的にパスとは異なる自分の得意なランプレイをしてしまったのです。それを監督は見逃しませんでした。即座に、僕をベンチに下げたのです。
もちろん、監督に「ドンマイ」などという言葉などかけられるはずがありません。僕のことなど眼中にないかのように、不機嫌そうな表情で戦況を凝視されていました。そして、試合後に延々と質問攻めにされました。
「なぜ、パスをしなかったのか?」「失敗を恐れて逃げたのか?」「チームが勝つためのプレイではなく、自分のやりたいプレイを優先するようなヤツはいらない」などと一切の容赦もなく詰められたのです。
もちろん、すべて監督の言うとおりですから、反論の余地はありません。まるでサンドバック。精神的にボコボコにされました。
当時は、「そこまで言わんでもええやろ」という反発心もありました。
監督の言うことは正しいが、ここまで選手を追い詰めなくてもいいじゃないか、と。
でも、その反発心は、僕のなかにある「甘え」にすぎませんでした。僕が本当に「日本一になりたい」と思っているならば、監督に言われるまでもなく、自分の「失敗」にまっすぐ向き合っているはずなのです。そもそも、その思いがあるのならば、苦手意識を克服するために、もっと厳しいパス練習を自分に課していなければおかしいのです。
「ドンマイ」などという言葉で、
失敗をごまかしてはならない
このプレイは、僕にとっては「トラウマ」のようなものでした。
30歳を過ぎても夢で見てうなされるほどの「心の傷」だったのです。
もしも、水野監督が“優しい監督”で、失敗をした僕に「ドンマイ。次は頑張れよ」などと声をかけていたら、僕の中で「心の傷」になることはなかったかもしれません。監督が徹底的に僕を問い詰めたからこそ、その後、何年も僕のなかでひっかかり続ける「問題」として刻み込まれたのです。
しかし、この「心の傷」が、僕の人生を変えてくれました。
なぜなら、アメフト時代の「心の傷」を克服しないまま、ずるずると生きていくのは「もうイヤだ」と思ったからこそ、僕は営業マンを志したからです。「アメフトで大学日本一から逃げた自分」に対する後悔や後ろめたさを乗り越えるために、日本一の営業会社であるプルデンシャル生命保険で「日本一になって自分を取り戻してやる」と心に決めたのです。その意味で、僕は、水野監督の「厳しさ」ともう一度向き合って、それを乗り越えるために営業マンになったとも言えるわけです。
そして、クーリングオフという失敗を犯した僕に対して、水野監督は何と言うだろうかと考えました。
わかりきったことです。めちゃくちゃに厳しい言葉を投げかけて、徹底的に失敗の真因と向き合わせようとしたに決まっています。
いや、それまで何度も営業手法を批判されてきたのに、「ドンマイ、気にするな。頑張って、売るしかないんや」などと自分に言い聞かせて、取りつくろってきた僕を、絶対に許そうとはしなかったに違いありません。
アメフト部時代は、その厳しさが過酷すぎるように思えましたが、そこにこそ監督の「親心」があったのだと思います。
監督は、「失敗」した選手に対して、「ドンマイ」などという言葉を絶対に使いませんでした。そんな“気休め”を口にしても、選手のためにならないと考えておられたのだと思います。
それよりも、「失敗」から目をそらすのではなく、「失敗」の真因を徹底的に突き止めて、それを克服するために全力をかけることで、スキルが磨かれるだけではなく、人間としての「成長」があるのだということを、僕たちに叩き込もうとされたのだと思うのです。