接待が成立するために必要な
接待される側の合理性とは?

 ところで、接待する側にとって合理的であるだけでは、接待は実現しない。接待される側でも合理性があると考えなければ、接待の場に出向かないだけのことだ。「会食は断らない主義だ」と自分に方針を課する必要もない。

 かつてのファンドマネージャーと証券会社の接待関係は、「カネ(を)使うてくれ」が口癖の人物の場合、飲食やゴルフの費用を自分で払わずに済むことがメリットで、自分が翌日に証券会社に注文を出す手間だけがコストという簡単な損得勘定だったのかもしれない。

 しかし、彼のように単純な人でも、自分があたかも「餌付け」されているがごとき関係には満足していなかっただろう。接待を通じて相手がへりくだることへの精神的満足感があったかもしれないし、接待の席で交わされる会話に「情報」の価値があると心の中で自己弁護していたかもしれない。

 ちなみに「情報を得ること」は、官僚や政治家が民間人と会食することの言い訳に使われやすい名目だ。

 接待の感情面について追記しておくと、飲食をしたにもかかわらず、自分が費用を負担していないことへの「一抹のやましさ」の感情が接待された側には生じる。通常の民間同士の接待でも、「何らかの形でお返しをしなくては」と接待を受けた側が感情を喚起されるところに、接待の大きな意味がある。

実は総務官僚は「接待する側」だった
と考えられる理由

 さて、接待を受けることの「一抹のやましさ」に触れたが、この点まで考えると、今回の一連の総務省官僚接待問題の特異性が浮かび上がる。

 はっきり言って、許認可に影響力を持つ立場で東北新社の接待を受けたり、携帯電話の通信料金が大きな問題となっているときにNTTの接待を受けたりするのは、官僚にとって「あまりにも、やましすぎる」。食事やワインがいかに高価な物であったとしても、いや、むしろ高価な物であったが故に、通常はリスクが大きすぎて総務官僚としてはメリットに全く見合わない。

 幹部に出世するような公務員にこうした計算と認識がなかったとは考えにくい。彼らはルールとリスクには大変敏感だ。

 それに、いいワインが飲みたいだけならば、外務省の友達にでも頼むと民間の接待よりももっといいものが飲めたのではないか。

 東北新社とNTTの総務官僚に対する接待問題の本質は、単に脇の甘い官僚が「ごっつぁん!」してしまったという問題ではない。