なぜこの本が「推し」なのか
本書には、科学の本にありがちな写真も模式図も一切無い。それでいて、生命科学の歴史から最先端の知見まで、平易な言葉で語られ、すんなりと入ってくる。もちろん、サイエンス作家の竹内薫氏の日本語訳の素晴らしさによるところも大きいが、生命科学の生き字引のような原著者が、本質を理解しているからこそなのだ。
本書は「生命とは何か」を5つのステップで説明する。それは、1.細胞、2.遺伝子、3.自然淘汰による進化、4.化学としての生命、5.情報としての生命という考え方だ。生物学の「原子」に位置づけられる「細胞」から始まり、「情報としての生命」という21世紀的視座への流れは最適化されている。
本書には、ナース博士自身と親交のあった多数の著名な生命科学者が登場する。いわゆる教科書には事実のみが書かれていることが多いが、科学という営みは人間によって為されるものであり、その行為を知ることで科学に対して親しみが湧く。ノーベル賞を2つも取った「庭師」が誰なのかは、本書を読んでのお楽しみ。
本書は「生命とは何か」を論じながら、「人間とは何か」に迫ろうとしている。
原著者自身が子どもの頃、どのように「生命」に興味を抱くようになったのか、やがてプロの研究者として、どのように(のちのノーベル賞受賞に繋がる)細胞が増える仕組み、その遺伝的プログラムを明らかにしたか、そして、どのようにひらめきと興奮を得たか(いわゆる「アハ!」体験)についても織り交ぜられている。ただし、他のノーベル賞学者の自伝的書籍に比して、はるかに謙虚な書きぶりだ。
本書は21世紀の社会において、食糧、生態系、感染症、がん、老化などについて考え、デザイナーベビーや人種差別等も含めた倫理的法的社会的課題に対する態度を決めるのに役立つ。あるいは、もしかしたら、これから遭遇するかもしれない地球外の生命体との出会いにも。
筆者はかつて、工学系の社会人を対象としたリカレント教育で「分子細胞生物学」を90分×4コマで教えていたが、もしその頃に本書があったら、迷わず参考書に指定しただろう。ここしばらく、立て続けに生命科学の解説本が出版されているが、時間の無い方にとってなら、本書がもっともお勧めだ。
実は、冒頭で紹介したイベントは、2011年に起きた東日本大震災後の原子力発電所の事故に対する科学技術や科学者への不信、2014年の初めより世界から注目された「幻の細胞」にまつわる研究不正等を背景として開催された。
ナース博士は、「科学は客観的事実の積み重ねが大事だが、その解釈などでは間違うこともある。科学は〈疑う〉ことに立脚しているということを、科学者も市民もよく認識することが大切」と話された。
ナース博士によれば、王立協会は政府とは独立した中立な立場で科学的意見を述べる役割があるという。政治家がどのような施策を取るのであれ、必ず王立協会に諮問されるのだ。もし、政策が科学的に誤っていれば、それに対して王立協会は異議を唱える。現代の政治や行政には科学の視点が欠かせない。
現在、ナース博士は、DNAの二重らせんモデルでジェームズ・ワトソンとともにノーベル賞を受賞したフランシス・クリックの名を冠したクリック研究所の所長であり、首相科学技術顧問も務める。 ナース博士が初めて一般書として書いた本書は、まさに多様な市民が参画する科学の推進、「シチズンサイエンス」のためのガイドブックとなろう。いつか、ナース博士に再度、来日いただき、本書を読んだ若い生徒・学生たちとリアルに語っていただく機会が作れたら良いと、新型コロナウイルス感染症の収束を願う。
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