発達障害のひとつであるADHD(注意欠陥・多動症)の当事者である借金玉さん。早稲田大学卒業後、大手金融機関に勤務するものの仕事がまったくできずに退職。その後、“一発逆転”を狙って起業するも失敗して多額の借金を抱え、1ヵ月家から出られない「うつの底」に沈んだ経験をもっています。
近著『発達障害サバイバルガイド──「あたりまえ」がやれない僕らがどうにか生きていくコツ47』では、借金玉さんが幾多の失敗から手に入れた「食っていくための生活術」が紹介されています。
働かなくても生活することはできますが、生活せずに働くことはできません。仕事第一の人にとって見逃されがちですが、生活術は、仕事をするうえでのとても重要な「土台」なのです。
この連載では、本書から「在宅ワーク」「休息法」「お金の使い方」「食事」「うつとの向き合い方」まで「ラクになった!」「自分の悩みが解像度高く言語化された!」と話題のライフハックと、その背景にある思想に迫ります(イラスト:伊藤ハムスター)。

発達障害の僕が発見した「自分は生きていていいんだ」と全肯定できない人にこそ伝えたい不安の意味

僕は、死ねずに「見苦しい30代」になった

 いきなり変な話をしますが、僕は自分に30代があると思ったことがありませんでした。自分は20代で死ぬだろうと、何の根拠もなく思い込んでいたので、会社を潰してうつのどん底にいながらにして30歳の誕生日を迎えたとき、とてつもない不安に襲われました。

「死ねばいいや」─これは20代の僕における基本的な姿勢でした。会社を始めたとき、銀行から(返す目算なんて何ひとつないまま!)大きな額の借り入れをしたとき、睡眠薬と酒をザバザバ胃に流し込んでいたとき、そういったとき僕のそばには常にこの最終的な解決策としての死が存在したような気がします。

 人生は恐ろしいです。ある日働けなくなるかもしれない。突然災厄が降ってきて何もかも失われるかもしれない。そして、とても残念なことにそういうことは起きるときには起きます。こういったどこまでも拭えない不安に対して、「死ねばいいや」以外の答えを出さなければいけなくなったのが、僕の30代の始まりだったように思います。

 僕は35歳になりますが、もうこの年になると若い頃はあれほど便利だった「死ねばいいや」の魔法が使えません。いざとなれば死ねばいいと思っている人間を30代の人たちは信用しないし、そもそも「死ねばいいや」というのは「いざとなれば全部投げだせばいい」という話にしか過ぎません。その投げだすための手段として「死」が有力候補にあるだけです。不安に立ち向かうレトリックとしても、あまり出来がいいものとはいえません。何せ、死ねばいいやと思っている人は、結構死んでしまうから。

 同病相憐れむという言葉がありますが、やはり僕の友人にも病んだ人間は多く、そして結構たくさんのやつらが死んでしまいました。アルコール依存症だったり、覚醒剤で逮捕されて帰ってくるなり首吊ったり、突然いなくなったまま住民票がもう10年も動いてなかったり。若くして死んだやつはいつまでも若く、僕はどんどん歳をとっていきます。

「いざとなれば死ねばいい」というのは、非常に強力な麻薬みたいなものです。これは、基本的には生きていきたいという欲求に突き動かされているのですが、その一方でどこか死んでラクになりたいという感情も混ざっている。コカインとヘロインみたいに生と死の欲求が混ざり合ったスピードボールです。これに突き動かされて人生を転げ落ちたのが僕です。最も、生き残ったんだから僕のキメ方はまだまだ甘かったという他ありません。キッチリ死んだ連中に比べると、僕はなんとも見苦しい生き物です。

どん底から何度でも「登ろうとする」ことはできる

 でも、その一方で僕はこういうことも感じています。不安が的中して、僕がまた人生を転げ落ちても、僕はもう一度そのどん底から「登ろうとする」ことができるだろうな、ということです。もう一度「登れる」かはちょっとわかりませんけどね。やってみないことには。

 それは、服薬しながら回復を待ち続けるということかもしれないし、また別の商売をすることかもしれないし、突き詰めてしまえば日本国民の権利たる生活保護を受けることかもしれません。でも、きっとそういうことができると僕は思います。

 人生が成功の上昇気流に吹き上げられているとき、人は確かに不安を忘れることができます。でも、それは単に成功に酔っているだけです。上昇角度がわずかに傾けば、すぐに不安はまた顔を出します。

 人生に、確かな進歩を感じられる日なんて1日もないのではないかと僕は思います。あらゆる努力はバクチです。成果が出るかなんてわかりません。あらゆる挑戦はバクチです。結果が出るかなんてわかりません。いつあなたの足元にどん底行きの落とし穴が開くかなんて誰にもわかりません。そして、それは開くときには開くといった性質のものです。

 だから、もうしょうがない。やれることをやって、不安を感じながら日々を生き延ばしていく。それしか残らないんです。

 あなたが今、うつの治療をしているなら日々はまるで無為なものに感じるでしょう。あなたが職のない生活をしているなら、今日1日はあまりに無駄だったと感じることもあるかもしれません。僕も、今日はTwitterしかしなかったという日を随分たくさん過ごしたものです。でも、その日々の中にあなたの「再起」への意志が、人生を少しでもよくしていこうという何かがあれば、それはそれでいいのです。

 不安は、未来への意志がそこにあることを示すものです。不安であることは正しいのです。「死ねばいいや」で勢いよく不安を忘れる精神的ヤク中より、不安を背負って生きているあなたがずっと前向きなのです。

 どうか忘れないでください。未来は長く続きます、どこまでも不安です。だからこそ、あなたは未だ敗れ去っていません。やっていきましょう。