水爆実験による日本漁船の被ばくの報が世界へ
第五福竜丸とベン・シャーンの出会い

 最終的には856隻の船に被ばくが確認されたが、連合国と敗戦国という圧倒的な力関係の中で優位に立つ米国政府は非を認めず、日本に200万ドルの慰謝料を支払うことですべての決着がつけられた。この中から乗組員にはわずか約200万円が支払われた。

 第五福竜丸の帰港後、米国の水爆実験による日本漁船の被ばくの第一報が新聞で報じられる。日本漁船が被ばくしたこと、水爆実験初の犠牲者が出たことは、国内のみならず全世界に衝撃を与えた。

 第2次世界大戦後、米国とソビエト連邦(当時)の冷戦を発端に、世界中で核兵器開発の競争が始まり、この水爆実験は米国海軍が危険区域を便宜上、告示した上で実施。第五福竜丸はそのことを知らされておらず、狭すぎる「危険区域」から約30キロメートル、爆心地から約160キロメートル離れた場所で操業をしていたのである。

 第五福竜丸は、海外では「福竜」を英訳した「ラッキードラゴン」と呼ばれた。物理学者のラルフ・E・ラップがこの事件をテーマに、「ハーパーズ・マガジン」(1850年に米ニューヨークのハーパー・ブラザーズ社が創刊した月刊誌)にエッセイを寄稿した際、編集者がその挿絵を、ベン・シャーンという画家に依頼する。

 これがベン・シャーンと第五福竜丸の最初の接点であり、ベン・シャーンの代表作の一つである「ラッキードラゴン」シリーズが生まれるきっかけであった。

「社会的リアリズムの画家」として
米国美術界を代表する画家の一人に

 ベン・シャーンは、1898年9月12日に、ロシア帝国のコヴノ(現・リトアニアのカウナス)という町で生まれた。コヴノは当時、ロシア帝国内のユダヤ人居住許可地域の一つであり、ベンもまたユダヤ人の家庭に生まれた。

 19世紀末、ロシア帝国でユダヤ人の迫害が激しくなり、「ポグロム」と呼ばれる政府主導の組織的な虐殺が、ユダヤ人居住許可地域でも行われるようになる。

 ベンの父のヨシュア・ヘッセルは、木彫師であったが社会主義者であったため、当時のロシア皇帝への非難を繰り返したことで1902年、シベリアに追放されてしまう。家族の身の危険を感じた母のギッテル・リーベルマン=シャーンは、ベンと弟、妹を連れて、故郷のヴィルクメルゲ(現・ウクメルゲ)に戻る。ベンはその地で、旧約聖書の世界にのめり込むこととなる。

 その数年後、ベンの一家は再び一緒に暮らすため、米国への移住を決意する。母たちはさまざまな国を経由してニューヨークへ渡り、父もシベリアから脱出し、各地を転々としながらニューヨークへたどり着く。家族は新天地で再び共に暮らし始めた。

 当時、1910年ごろのニューヨークには、150万人のユダヤ人が暮らしていたとされる。その多くは、マンハッタンのロウワーイーストサイドやブルックリンに住んでおり、シャーン一家もまたブルックリンに居を構えた。

 ユダヤ人移民の生活は貧しいものであったが、勉強好きのベンは学力をつけるために夜間高校に通った。将来は画家になりたかったが、家計を支えてもらうため、父親はそれを許さなかった。しかし代わりに、石版画工房での職を見つけてきて、ベンはそこで働き始める。

 石版画工房でベンは文字のデザインを覚え、看板やポスターを制作し、レストラン内部を装飾した。後に画家として、そしてグラフィックデザイナーとして第一線で活躍することになるベンの才能は、ここで養われたのである。

 働きながらであれば反対はされないだろうということで、ベンは工房で働きながら、米ニューヨーク大学、米ニューヨーク市立大学、そして米美術学校のナショナル・アカデミー・オブ・デザインやアート・スチューデント・リーグなどに通った。

 しばらくしてベンは、ユダヤ人移民のティリーと出会い、貯金をして共に欧州旅行へ出かける。芸術を志すベンにとって憧れの地であり、何より2人にとっては、自分たちを追い出した地であり、ルーツでもあった。

 2人は2度、渡欧し、1度目の1925年にはイタリアのフィレンツェ、ベネチア、オーストリアのウィーン、そしてフランスのパリを訪問。2度目の1928年にはチュニジアに滞在した後、再びパリを訪れている。

 パリでヨーロッパ芸術にふれているうちに、ベンの中には「これは確かに芸術であるかもしれない。しかしこれは私の芸術だろうか……」という疑問が芽生えた。

 ロシア帝国下で過ごした少年時代、母の故郷でふれた旧約聖書の世界、ユダヤ移民としてのニューヨークでの生活、石版画家としての経験、それらを通した政治や社会に対する思い……。これまで私が描いた絵や、ふれてきた絵には、それらが抜け落ちている。私の描くべきものは自分の中にこそあるはずだ、そのようにベンは考えたのである。

 以降、ベンは社会的な絵を描くようになる。

 たとえば、19世紀末に起こったユダヤ人排斥運動を背景にした冤罪事件「ドレフュス事件」である。これは、フランス陸軍大尉のドレフュスがドイツのスパイとして逮捕されたもので、国内外で議論が巻き起こり、結果、無罪とされた事件だ。

 また、1920年に米マサチューセッツ州で起きた「サッコとヴァンゼッティ事件」についても描いている。イタリア系移民のサッコとヴァンゼッティが強盗殺人事件の犯人として証拠不十分のまま逮捕され、冤罪であるとして助命嘆願運動が起こった。そして、欧州においても抗議デモが大々的に繰り広げられたにもかかわらず、1927年に2人は処刑された。

 ベンは、不条理な社会に対する怒りを元に、弱者保護とヒューマニズムの精神の観点から、移民差別や労働問題、冤罪事件などをテーマとした作品を矢継ぎ早に制作・発表していった。

 第2次世界大戦後、ベン・シャーンは徐々に日本でも注目されるようになり、美術雑誌などで紹介される機会が増えてくる。彼は絵画、グラフィックデザイン、写真と、その表現手法を広げ、1947年に開催した米ニューヨーク近代美術館における回顧展にて、その名を美術界において確固たるものとした――、はずだった。

 しかし「赤狩り」の時代において社会的なテーマを描くという反権力の姿勢に、多くの批判が集まる。加えて、ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコといった抽象表現主義の評価の高まりも相まって、ベン・シャーンは徐々に美術界の主流から外されてしまう。