「第五福竜丸事件」を描いた
「ラッキードラゴン」シリーズの誕生

 そして1954年、冒頭でふれた「第五福竜丸事件」(ビキニ事件)が起こった。物理学者のラルフ・E・ラップがハーパーズ・マガジンに寄稿したエッセイ「ラッキードラゴンの航海」は全部で3回、そこに掲載されたベン・シャーンの挿絵は14点。この挿絵は後に絵画作品「ラッキードラゴン」シリーズとして、1961年の個展で発表された(ちなみにベン・シャーンは個展を開催する前年に日本を訪れている)。

We Want Peace PosterWe Want Peace Poster(我々は平和を望んでいる/1946年) Photo:David Pollack/gettyimages

 また、1965年に作家のリチャード・ハドソンとともに『久保山とラッキードラゴン伝説』という本を出版。ベン・シャーンは装丁と挿絵を担当した。

 1969年、ベン・シャーンは心臓発作で息を引き取るが、その前年に、被ばく後の広島の建物が写る報道写真をもとにその風景を極限にまで抽象化した絵画「多くの都市を」を完成させている。

 彼の没後、夫人のバーナーダ・シャーンはこう語っている。「戦時中、広島と長崎が爆撃されたあと、ベンは拭いきれない悲しみを持ち続けていました。このことについて私に、自分自身が罪を犯したときのような罪悪感を感じると打ち明けたことがあるほどです」(1970年5月19日付 東京新聞)。

 第2次世界大戦中、ベン・シャーンは米OWI(戦時情報局)の依頼で、米国民の戦意高揚のため、反ナチスのポスターを2点制作した。そのような背景はあったものの、そのうちの1点「我々は平和を望んでいる」は、世界中の人々の心を捉えた。ナチスを批判したものとはいえ、自身の作品を米国民の戦意高揚に用いたことに、ベン・シャーンは罪の意識を感じていたのかもしれない。

 ベン・シャーンは、社会と政治と芸術の間を縦横無尽に行き来し、人種や宗教による差別、労働や貧困問題といったテーマを積極的に選んで世界にメッセージを投げ続け、時には自らの作品を武器として戦ってきた。

 被ばくによって鉄骨がむき出しとなっている広島の建物を描いた作品、「多くの都市を」(1968年)をあらためて見ると、水素爆発で骨組みがむき出しになった状態の、東京電力福島第一原発の原子炉建屋が脳裏に浮かぶ。ベン・シャーンは没後50年以上たった今でもなお、われわれにメッセージを投げかけているのだろう。

ビキニ環礁は世界遺産に
第五福竜丸は一部を保存

 2010年7月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、ビキニ環礁を世界遺産(文化遺産)に登録した。サンゴ礁を自然遺産ではなく文化遺産、つまり「負の遺産」として登録したことは極めて異例である。

 その理由として、「サンゴ礁の海に沈んだ船や、ブラボー水爆の巨大なクレーターなど、核実験の威力を伝える上で、極めて重要な証拠を保持している」「平和と地上の楽園とは矛盾したイメージを持ち、核時代の夜明けを象徴している」と発表している。

 なお、事件後に日本政府所有となった第五福竜丸は、機密保持のために海に沈められる案もあったが、結局は放射能が減るのを待って、東京水産大学(現・東京海洋大学)が航海の練習船「はやぶさ丸」として改造し、再活用される。

 その後は老朽化によって1967年に廃船処分となり、解体業者へ払い下げられ、東京都のゴミ処分場である「夢の島」に長らく放置。それを知った人々の保存を求める声が次第に大きくなり、1976年に東京都立第五福竜丸展示館が開館。今も夢の島でその姿を見ることが可能だ。

[参考]

 ・図録『ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト』(美術出版社、2012年)
 ・図録『ベン・シャーン展』(東京国立近代美術館、1970年)
 ・図録『ベン・シャーン展』(埼玉県立近代美術館、2006年)
 ・ベン・シャーン、アーサー・ビナード『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社、2006年)
 ・永田浩三『ベン・シャーンを追いかけて』(大月書店、2014)
 ・赤坂三好『わすれないで―第五福竜丸ものがたり』(金の星社、1989)