中山:患者さんが食事がとれなくなって、その状況に対して医療には点滴をする、鼻から管を入れる、胃に穴を開けて胃に直接食事を入れるといった3つくらいの方法がありますが、そのすべてをご家族としっかり話し合った結果、どれもやらずに食べられなくなって、そのままだんだんと死に近づいていきました。ああ、こういう終わり方があるんだと、初めて知りました。
しかし、僕の心の中では葛藤もありました。もうちょっと治療したら、1ヵ月、2ヵ月、半年ぐらいは何とか頑張れたかもしれないという医学的な思いと、ある日突然、知らないところから医療従事者という親戚が現れて、「なんで何もやらないんだ、そのせいで死期が早まったんじゃないか!」と怒られ、訴えられるんじゃないかという不安も正直よぎりました。
ですが、その二つの葛藤を飲み込むほど、最期のお看取りのシーンは自然で、神々しいとさえ思えたんです。人間は、こうやって生きて、こうやって死んでいくんだと思いましたし、こうあるべきだと、理解ではなく「感じた」というのが正しい表現です。
後閑:それはすごく共感できます。私も患者さんが亡くなった後に、その患者さんがすごくおしゃれな方だと聞いていたので、ご家族に「お母さんはすごくおしゃれな人だったと聞いたので、皆さんでメイクをしてもらえませんか」とお願いしたんです。エンゼルケアという身体を綺麗にしたり浴衣を着せたりするのは看護師がやるのですが、最後にメイクだけご家族にやってもらったんです。
家族が思い出話をしながらメイクをしてくれて、お孫さんが「おばあちゃん綺麗だね」って言ったんです。お嫁さんも「ほんとだ、綺麗」、長男さんも次男さんも「母さん、綺麗だ」って。その光景に、人生の最後に家族みんなに綺麗って言われるって、なんて素敵な人生だろうと思いました。そのすべてに、まるで美しい景色を見ているような高揚感を覚えました。尊厳を保ったまま亡くなることができた、生ききったんだ、と感じました。
中山:やっぱり、僕も後閑さんもそういうふうに感じるということは、たぶん多くの人が同じように感じると思うんですよね。そう考えると、ラストシーンに人工的なことが増えるというのは自然ではないんでしょうね。
後閑:本来は、歩けなくなって、食べられなくなって、木々が自然に枯れていくように自然に亡くなっていくんでしょうけれど、医療はそれをひどく遠回しに、より困難にしているように思えることがあるんです。
中山:すごくあちこちに行った結果、僕たちは戻ってきた気さえしますよね。
後閑:本人家族が医療者まかせにしないためにどうしたらいいかという、アドバイスはありませんか。
中山:有事の際に考えるのではなく、普段から家族ともしもの時の話し合いをしておいてほしいということですね。自分の葬式はどうしてほしいとか、意識がなくなったらどれくらい積極的に治療をしてほしいとか、死にまだ遠い時に死について話し合っておくことが大事だと思っています。
その辺の意識は後閑さんと同じだと思っていて、だから僕も以前、『幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと』という本を書いたんです。元気な時に考えておいてほしいんです。
後閑:本当にそうですよね。私も元気な時にこそ考えておいてほしいという思いがあって、看取りや死について病院の外でトークイベントをしたり、ネットで発信したり、今回、『後悔しない死の迎え方』という本を書いたりしているんですよね。
元気なうちに、自分はどう過ごしたいか、何を大事に思っているのかなどを話し合っておいてほしいですね。「延命治療はしないで」というのでは、話し合ったうちに入りません。なら、延命治療って何ですか? という話になりますし、じゃあ、どうしたらいいのと、結局は医療者まかせとなって不本意な形で生かされ続けたりしてしまうわけです。ですから、どう最期を過ごしたいか、どういう思いを大切に生きていきたいかを、何かの機会で話し合っておいてほしいなと思っています。
(1)医療者も家族や本人とはまた違う苦しみを味わっていると理解する
(2)プロの意見をもらう質問「先生だったらどうしますか?」
鵜呑みにはしないこと。なぜなら医師の死生観に左右されることになるから。
それに自分の人生観をプラスして考えること。
(3)静かに尊厳を持ってその生を閉じていくには、元気な時から話し合いをしておくこと