人類をもっとも多く殺戮した感染症

 マラリアは、現在、「世界三大感染症(HIV/AIDS、結核、マラリア)」の一つとして、公衆衛生上の大きな脅威になっている。これら三種の感染症によって、毎年二五〇万人もの命が奪われているのだ。

 なかでもマラリアは毎年数十万の人命を奪っている。死者の九三パーセントが熱帯熱マラリアの多いサハラ以南のアフリカに集中しており、そのほとんどが五歳未満の子どもだ。その他、アジアや南太平洋諸国、中南米などでもマラリアが流行している。疾病対策のため低・中所得国に資金を提供する機関として二〇〇二年スイスに設立された「グローバルファンド」日本委員会のWEBサイトによれば、二〇一七年時点で年間二億一九〇〇万人以上がマラリアに感染し、約四三万五〇〇〇人が死亡しているという。

 おそらく人類をもっとも多く殺戮してきた感染症はマラリアである。つまりマラリアを媒介するハマダラカを駆除してきたDDTほど人命を救った物質はないと言える。救った人命の数は、五〇〇〇万人とも一億人とも推定されている。

 しかし、その後にDDTに耐え抜いたハマダラカが出現したため、結局、DDTはハマダラカを殺さず強化しただけともいえる。農薬や殺虫剤の開発と耐性を持つ昆虫の登場。これは現代にも続いているいたちごっこだ。

DDTに変わる薬剤は……

 しかし、いまだにDDTに取って代わる薬剤はない。防除効果が高く、人畜毒性が低く、かつ安価なDDTは有用性が高いのだ。このため、二〇〇六年に入り、世界保健機関(WHO)は、「発展途上国において、マラリア発生のリスクがDDT使用によるリスクを上回る場合、マラリア予防のためにDDTを限定的に使用することを認める」という声明を発表した。WHOは、「少量のDDTを家の壁などに噴霧する」という使用法を奨励している。

 そして、この方法ならば環境中にDDTが放出される心配はなく、効果的にハマダラカを殺して、マラリアの蔓延を抑えることができるという。

 しかし、DDT耐性のハマダラカに効果があるかどうかは疑問が持たれている。カーソンがDDTなどの大量使用に警告を行った理由の一つは「農薬などのマラリア予防以外の目的の利用を禁止することにより、ハマダラカがDDTに対する耐性を持つのを遅らせるべきである」というものだった。

 先進国でマラリアを撲滅できたのは、公衆衛生や住居の改善、湿地帯に住む人の減少や湿地帯の排水、抗マラリア薬がどこでも入手可能になったことなど、さまざまな理由がある。その最終ステップにDDTの散布があり、ハマダラカがDDT耐性を持つ前に撲滅できた。

 現在、マラリアが猛威をふるう地域の多くでは、DDT耐性のハマダラカが現れている。湿地帯にも多くの人が住むことで、生態系が変化し、ハマダラカやその幼虫を食べる生物種は減少しているのだ。さらに戦争や公衆衛生の低下、抗マラリア薬に耐性を持つマラリア原虫の増加がある。

 マラリアがはびこる大きな背景には貧困と戦争がある。もっとも重要なのは、貧困や戦争のない世界を私たちがどうつくっていくかということではないだろうか。

(※本原稿は『世界史は化学でできている』からの抜粋です)

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左巻健男(さまき・たけお)

東京大学非常勤講師
元法政大学生命科学部環境応用化学科教授
『理科の探検(RikaTan)』編集長。専門は理科教育、科学コミュニケーション。一九四九年生まれ。千葉大学教育学部理科専攻(物理化学研究室)を卒業後、東京学芸大学大学院教育学研究科理科教育専攻(物理化学講座)を修了。中学校理科教科書(新しい科学)編集委員・執筆者。大学で教鞭を執りつつ、精力的に理科教室や講演会の講師を務める。おもな著書に、『面白くて眠れなくなる化学』(PHP)、『よくわかる元素図鑑』(田中陵二氏との共著、PHP)、『新しい高校化学の教科書』(講談社ブルーバックス)などがある。