同年、政元が管領を辞めると言って京都から出てしまったり、逆に将軍・義澄が腹を立てて寺院に引きこもるなど、二人の確執が大きくなったのである。ただ、その後は和解して小康状態を保ち続けたものの、5年後の永正4年(1507)、驚くべき事態が出来する。細川家の家督をめぐって政元自身が暗殺されてしまったのである。

 すると当然のごとく、周防にいる前将軍・義材が元気づき、翌年、西国から軍勢を連れて都に入り、将軍に返り咲いたのである。一方、京都から駆逐された義澄は、京都奪回を目指したが、残念ながら永正8年に病死してしまった。

 以上のように明応の政変を機に、将軍家は義材系統と義澄系統に分裂し、守護大名を巻き込んで争いを続けるようになった。

 こうした中、室町幕府の支配力は山城一国にしかおよばなくなり、その実権も細川氏からその家臣の三好氏に移り、さらにその家来だった松永久秀に移っていった。対して地方では、独立した権力である戦国大名が登場し、それぞれが自分の分国を拡張するため相争うようになった。

 戦国大名の出自は、守護大名だったり、守護代だったり、国人だったりと多様だが、いずれにせよ、明応の政変をきっかけにして実力がものをいう時代に大きく変わったのである。

訂正
記事初出時より、以下のように表現を改めました。第5段落:新将軍となった義正の息子・義尚は、→新将軍の義尚は、(2021年5月12日10:53 ダイヤモンド社デジタル編成部)