石油化学の専門書を読み
主要な化学式を丸暗記

――しかし、それにしても19歳の少年が経済記者を発想したこと自体、信じられません。

高杉 「自轉車」の道具立ては新聞販売店の自転車ですが、高校生の頃「日本経済新聞」の配達をやっていたんです。また、アルバイトで無線産業新聞社の「坊や」も経験しました。記者ではなく坊やという助手ですが、1年くらい勤めていました。両国高校定時制の頃で、病気やら何やらで、高校は卒業できませんでしたが。

――すると、無線産業新聞社のアルバイト経験が経済記者として就職するきっかけになったのかもしれませんね。

高杉 ある日、松下幸之助さんの講演会があり、そのとき、「君、ちょっと聞いてこい」と言われて、感想文みたいなレポートを提出したんです。すると、読んだ人に「おまえ、記者になれるよ」と褒められたんですね。実際、このまま辞めないで働いてくれないか、とも言われたことを思い出しました。

――なるほど、やはり、坊や経験が直接のきっかけといえるでしょう。ちょうどその頃に書かれた「自轉車」は、ラストのシーンなど、フランス映画の小品のような素敵な短編小説でした。

高杉 「自轉車」はね、自分でもちょっと自慢の作品でした。石油化学新聞社の面接者は社員の高橋幸夫さん一人で、社長の成冨健一郎さんは不在でした。高橋さんには「自轉車」のコピーを手渡ししました。試験は土曜で社長に会ったのは月曜の朝でしたが、少し話をすると、「こんな生意気な若造に何ができるか」と嫌われたようでした。高橋さんがとりなして社長にも「自轉車」を読ませたらしい。翌日の火曜日に会うと、「見事だ」と一転、評価してくれました。

――そして入社してすぐに、つまり19歳で「川崎コンビナート」のルポが掲載され、翌1959年1月に20歳の誕生日を迎えます。そしてすぐに「四日市コンビナート」のルポ、日本合成ゴムの民営化といった大きな経済事案の取材・執筆が続きます。つい最近まで高校生だったとは信じられませんよ。

高杉 とにかく文章力があるだけで始めたのですが、石油化学の専門書をたくさん読み、取材に必要な化学式は全部丸暗記しました。化学式は必ず聞かれる。当時、協和発酵工業に取材に行ったとき、企画部長から「君、合成ゴムの化学式、書いてみろ」と言われたこともあります。

――作文力はどうやって伸ばしましたか?

高杉 母の影響でしょうね。ベルリン大学医学部に留学していた杉田保伯父が送ってくれた絵本を、母が何が書いてあるか話してくれたんです。童話ですね。読むのも書くのも、まず童話でした。アンデルセンやグリムはウチにたくさんありました。グリムはちょっと怖くてね。母の蔵書で読書していたわけですが、市川市立図書館にもよく行きましたよ。

――市川市の記録によると、1950年に高杉さんの母校である市川小学校校内に市立図書館が開館したそうです。

高杉 僕は子どもの頃からしつこいから、母を質問攻めする。だから案外早く国語辞典を買ってくれました。その頃の夢は経済記者ではなく、童話作家だったんです。