考えてみてください。週の初めと週の終わりを比べると、週の終わりに生き生きとしている人のほうが多くないですか?
「暮らしを立てる」ための活動から家に帰った際、より充実した暮らしを手にしていますか? 心を踊らせながら玄関のドアをくぐり、リフレッシュして精気をみなぎらせ、家族や友人との楽しい時間の準備ができていますか?
仕事によって維持される暮らしとは、いったいどこにあるのでしょうか? 私たちの多くは、実際は「墓場を建てている」のではないでしょうか? 仕事によって自分たち自身――健康、人間関係、楽しむ心や好奇心――を殺していませんか?
私たちはお金のために人生を犠牲にしています。ただ、症状が緩やかに進行するため、そのことに気づかないのです。白髪が増えているこめかみ、太くなっているおなかまわりだけが時の経過を教えてくれます。その間に、職場では個室が供与され、社用車が支給され、テニュア(終身在職権)が与えられ、前に進んでいるように錯覚します。最終的には欲しかったあらゆるもの、高級品やぜいたく品さえも手に入るかもしれませんが、惰性で9時5時の生活習慣を続けてしまいます。
結局、働かなければ余った時間を何に使えばいいのでしょうか?
仕事を通じて生きる意味や達成感を見いだすという当初の夢は、社内政治、燃え尽き、退屈、熾烈な競争という現実に徐々に置き換わっていきます。子どものころの好奇心、大学生のころの使命感など、愛によってあらゆるものが心と結びついていた時期はすべて、「まだ若かった」という一言で片付けられてしまいます。
仕事が好きで、世の中に貢献できていると感じている人々でさえも、もっと楽しめるより大きな舞台、9時5時の世界を超越した舞台が自分には用意されているという感覚を持っています。解雇されて失業者の仲間入りをする不安もなく、好きな仕事を何の制約もなく行うことでもたらされる達成感があるはずだと、どこかで信じているのです。
「自分ならこうしたいけど、役員たちは彼らのやり方でやりたいんだろ?」などと、これまで何度言ってきたことでしょう? お金や仕事にしがみつくために、私たちはどれだけ夢をあきらめてきたのでしょうか?
仕事こそが自分という錯覚
楽しくもなく価値観と反する仕事に見切りをつけることができたとしても、私たちは心理的にどこかで自分自身を解放することができません。私たちは仕事によって、自身のアイデンティティと自尊心を保っているからです。